スクリプターレス・スクウェア
佐々宝砂

しんきらと冷えた冬空からこそ出発する
はずだった

真冬ならばきっと
乾燥した肌は粉を吹いて水を求めただろう
夜空の河の湿度はきわめて低い
のどが乾いたなら
お姉さんにあげるはずの牛乳を飲み干してしまえばいい
窓を開け放っておけばじきに海が侵入してくる
干上がった海 ディラックの海よりわずか豊かなだけの
その海にぎらぎらと銀に輝く門が浮かぶあそこから
きみの旅が始まるのだと古文書は記し

しんきらと冷えた夜空からこそ出発する
はずだった

神保町のみわ書房で懐かしい本を買っておこう
夕暮れの乾物屋で鰺の干物を買っておこう
水筒も忘れないように でも水筒は空にしておくこと
家族には内緒にしておくこと こっそりと出かけること
友だちには連絡しておくこと ただしひとりにだけ
さよならは言わないでおくこと さよならだとしても
冷たい海に浮かぶラッコの毛皮なんてほしがらないこと
準備が整ったら測量を開始しよう
ほらずんと響く低いモスグリーンの声がきみを導き

しんきらと冷えた夜空からこそ出発する
はずだった

今は夏だ
どうしたわけか夏だ
たらたらたらとだらしない言葉のような汗がおちる
あのこはカンパネルラ並の莫迦で
あのひとはジョバンニ並の莫迦で
そして私はそれに輪をかけた大莫迦で
いや
私は極端な大莫迦になろうとしてなれない普通人で
だのにイカロス莫迦を追いかけているらしくて
そのせいだとは言わないけれど
私の指は
今夜も湿っぽく粘ついている


自由詩 スクリプターレス・スクウェア Copyright 佐々宝砂 2004-08-07 03:54:49
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