何を書くか。どう書くか。そしてその先で、何を書くか。
いとう



他人のことは知らない。
自分自身について。


今は41歳だ。もうすぐ42歳になる。
13歳の頃から詩を書いている。
途中、8年くらいのブランクがある。
21から28歳くらいまで。
単純計算で、21年、詩を書き続けている。

まずは書きたいことを書く時期があった。
書きたいことを書きたいように書く時期だ。
書ければ満足する。そういう時期。
難しいことはわからなかった。
難しい詩は読めなかった。
まだ、詩を芸術として認識していなかった。
10代の前半の頃だ。

高校生の頃に現代詩に出会った。
1980年代。「女性詩」という言葉が流行っていたように思う。
でもまだなんだかよくわからなかった。難しかった。
わからなかったけれど、
「すごい」と思える詩や詩人にいくつか出会った。
出会っただけで、それを血肉にする経験はまだなかった。

技術は書きながら覚えた。
そして、技術の必要性を認識したのはさらにその後だ。
ブランクの後の話。
必要性を認識した途端に、
自分の詩の技術不足に気づいた。
「どう書くか」の時代だ。
書きたいものを書いて満足する時代は終わっていた。

技術について試行錯誤することは実は、
「どう書くか」を上達させる本道ではない。
それは結局「作品」をおざなりにしていることと同義であって、
結果として、技術向上が“手段”であることを忘れてしまっていることになる。
「どう書くか」を主眼に置いてしまうと、先が見えないし、先がない。

それを踏まえて、
「技術は経験に裏打ちされる」という言葉を、
(才を持つ者のことは知らないが)
我々凡人が詩と付き合っていくのなら、
自分の片隅に置いておくべきだと思っている。
そのように年月をかけて、
自分のスタイルを見つけ、それに固執せず、
壊しながら様々な手法を身につけていくしかないと思っている。

その時に糧となるのは、なったのは、やはり歴史だ。
趣味で詩を書いている人はともかく、
“詩人”と名乗りたいのであれば、
日本の詩の歴史、その全像だけでなく、
個々の時代の個々の詩人のスタイル、手法、
それは知っておくべきだと考えるし、
知っておこうとする努力はすべきだと、思っている。

要は、
いつの時代にどんな詩人がどんなスタイルでどんな詩を書いていたのか。
それを知る努力をしようとしない人間は、
詩人と名乗るのはおこがましいのではないか、と。
もちろん、これは、詩人であることに限らず、
個々のジャンルの中で、
芸術に関わるすべての人たち、
あるいは、すべての職業、業界に対して、言えることだろう。
簡単に言えば、たとえば自動車産業に勤める人間が、
自動車の歴史、変遷を知らないで、
仕事ができるのか? 金がもらえるのか? 評価されるのか?
それと同義だ。
そこを考えない人間は、そこで止まる。
止まらざるを得ない。成長できない。


さて。
そうやってある程度の技術を身につけた。
稚拙はともかく、いろいろなスタイルで詩を書けるし書いてきたし、
お望みなら、同じテーマで違うスタイルの詩を書くこともできる。
けれどそこで行き詰まるのだ。
「では俺は何を書きたいのか?」と。
いや。この問いはもっと深淵だ。言い換えよう。
「何を書けば、それが芸術としての深さを持てるのか?」

その世界では、自分の人生、あるいは自分自身と向き合うことになる。
「自分とは何か」
それを問い続けなければ作品が書けない。
語弊があるが、浅はかな人間には浅はかな詩しか書けないのだ。
そしてとても怖いことに、その浅はかさに自分自身が気づかないのだ。
だから今の自分にとって、詩を書くという作業は、
自分自身の浅はかさを知っていく作業に他ならない。
そしてそれは、
どれだけ多くの嘘を抱えて、
自分は存在しているのか、ということを、
確認していく作業に近い、のかもしれない。

今はそうやって、詩を書いている。



散文(批評随筆小説等) 何を書くか。どう書くか。そしてその先で、何を書くか。 Copyright いとう 2008-09-29 23:30:03
notebook Home 戻る  過去 未来