月のない夜
塔野夏子

けれども胸は 青く傾斜してゆく 怯える意識には
透明なふりをする思惟が 蔓草のようにからみつく
窓の外では 涙のように 果実の落下がとめどなく
そのさらに遠く 地平の丘の上では 二つの白い塔が
ウィンナ・ワルツを踊りつづけている 耳のなかでは
男とも女ともつかない人の声が 古い歌を低く
ハミングしている 吊りランプには 緑がかった炎が揺れ
壁からは時折 数輪のクロッカスが 咲いては消える
(昨日はフリージアだった) 揺籃には 玩具の天使が眠り
その瞼の上空を飛ぶ白鳥の群れと 針金製の子午線とが
交錯する 何処か遠くで 列車が駅を離れてゆく
誰かが 岬から手を振っている 光にそよぐ草の記憶が
砂時計の内をすべり落ちる きらめく湖面が
夢のように頭上に広がる 幾千もの樹々が
ピアノを奏でてゆく 風に舞う薄紅の手紙を
はしゃぐような指たちが 追いかけてゆく なつかしい
可憐な秘密へとつづくような小径を けれども胸は
青く傾斜してやまない 透明なふりをする思惟に
蔓草のようにからみつかれ 意識は怯えている こんなにも
深く抱きしめられているのに


自由詩 月のない夜 Copyright 塔野夏子 2008-06-01 16:22:54
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