ただ捨てられるだけの日記
Rin.


 祖母は絵に描いたような大阪人でした。商売が大好きで、勝気で、たまに口が悪くて、酒屋でしたからものすごく酒には強くて、花は大ぶりの派手なものが好きで、ついでにヒョウ柄も大好きで・・・そんな人でした。

 有名なエピソードがあります。父がまだ幼かった頃、夫婦喧嘩の末に祖父が祖母に「酒粕汁」をかけたそうです。その行為に腹を立てた祖母は、祖父が謝るまで何日も、粕汁をかぶったまま、風呂に入らなかったとか。本当に、そんな人でした。ですから私の常識では想像すらできない、かなりはちゃめちゃな行動や、(親戚の葬儀で読経が挙げられている中、「生」と書いたビールの宣伝のうちわで始終扇いでいたとか)はちゃめちゃな祖母なりの格言などもあったりして、母とよく唖然と顔を見合わせたものです。「順番は、抜かしても抜かれるな」的な発言は当たり前で、知らぬ間に私の常識と化してしまったようす。おかげさなで社会には適応できないものの、たくましく育ちました。

 祖母は私をものすごく可愛がってくれました。祖母は何にでもランクをつけてひいきしました。絵本のように、トラ猫を筆頭に11匹、猫を飼っていましたが、人懐っこいトラが一番のお気に入りのようで、うなぎ屋でだす用のうなぎの頭を2皿買って来ては、1皿をトラ猫大将に、もう1皿を「その他大勢」にやっていたのを覚えています。おかげさまでトラは、まるまるとふくよかに育ちました。猫でこのようですから、孫もまたこのようでした。奇しくも私を含め、11人の孫がおりまして、なぜかよくわかりませんが、物心ついたときから祖母は、私を一番可愛がってくれました。ことあるごとに
「りんちゃん、りんちゃん」
と、
「今日は百貨店に行こうか。」
「今日は宝塚を観に行こうか。」
そんな感じでした。中でも祖母は買い物が好きで、百貨店はもちろん問屋などにもよく連れて行ってもらったものです。各階の椅子にずっと笑顔で腰をおろして、私が見せるもの見せるもの、
「ええな、似合うで。ほら、迷うくらいなら買うたらええ。」
と、望むものは全て買い与えてくれました。母は、「我慢のできない子に育つ。」と懸念していましたが、祖母の理論では、「こうしないと人の持ち物などを妬む子どもに育って、物盗りなどをするかもしれない。」ということでした。どちらが正しかったのかは未だに分かりません、。が、私はひとたび欲しいと思ったら我慢ができませんし、人様のものを、拾うことはあっても盗んだことはありません。

 祖母は私に、お金で買えるものは何でもくれました。ですが祖母が自分のものを買っている姿はほとんど見たことがありませんでした。たまに寄る小さなアクセサリー店で、安いビーズやプラスチックのネックレスを、何度か買っていたくらいでしょうか。どれも大振りで、いかにもイミテーションな光方をした石たちでしたが、祖母は
「これがええんや。」
と大切そうに引き出しにしまっていました。ですから私は、せっせと祖母のためにビーズでアクセサリーを作ったり、金や銀の色紙で飾りを作ったりして贈っていました。いかにきらびやかに、派手に製作するかで、祖母の喜び方が違う気がして、なんでもかんでもにスパンコールをくっつけたりして頑張っていたように思います。

 しかし、祖母が一番喜んでくれたのは私の文字による作品でした。祖母と遊んだことを書いたものや、祖父の遺影について思うことなど、学校ではなまるをもらったり、コンクールで賞をもらったりする度に、その作品を、実印やら土地の権利書やらの入った引き出しに同居させてくれていました。そして毎日向かいの魚屋のおばさんに自慢するものですから、おばさんはタコだけは仕入れなくてもよくて、きっと大助かりだったと思います。

 そう、私は昔から文章を書くことが好きでした。言葉で何かを表現できたとき、いいたいことにぴったりと合う表現が見つかったとき、私はたまらなく気持ちよくなります。私と付き合う男性には大変申し訳ないのですが、ナニよりも快感なのです。ゆえに短歌は私の性に合っていたようで、たくさん詠みはじめたのこそは最近ですが、高校の時から教科書や手帳のすみに、よく走り書きしていました。私の標語かなにかが入選し、京都の大通りを飾ったときの写真なども、祖母はずっと眺めていてくれたようです。

 そんな祖母も2月に他界し、この日曜が百か日にあたるというので、祖母の家に参りました。随分と久しぶりでした。祖母は2年前骨折をしまして、
「誰も見舞いに来ない。」
やら
「病院になんか入れよってからに・・・。」
やら、散々毒を吐いて暴れたあげく、叔母の家に引き取られましたから、私もそのとき以来祖母に会ったのは数えるほどしかありません。もちろん家に行っても祖母はいませんし、叔母の家はどうにも行きづらかったのです。なんだかいい時にだけ行って、色々もらって、こうなったらちっとも会いにこないと、叔母や従姉妹はきっと私をよくは思っていなかったでしょう。地理的な事情もありますが、そういう複雑な人間関係もあって、あの2年はやはり後ろめたいものがあります。

 祖母は先にも書いたような性格でしたから、店をしているときは長男の嫁に、引き取られてからは叔母に、散々毒を吐いていたそうです。祖父が死んでから20年あまり、日記を毎日つけていたそうですが、
「私がされたことは全部あの日記に書いてあるから、私が死んだら読んでくれな。」
と、母に言ったようです。祖母はなぜか私の母にだけはきついことを言いませんでした。きっと京都人というので遠慮していたのでしょう。

 そういう日記の存在は私たちも含めてみな知っていました。しかし、書いてあることが原因で、兄弟やその配偶者との間にもめごとが起こるのを懸念して、百か日のときに処分しようとか、なんだかそんな話になっていたようです。読経のあと、80冊近いノートが袋詰めされ、廊下の隅にやられました。袋の口はあいていて、「NO・75」と書かれたオレンジの表紙が除いていした。私はそれが気になって仕方なかったのですが、周りの目もありましたし、どうしても触れることができませんでした。ところが、「祖母は自分を一番可愛がってくれました。」と、私と同じように感じていたという弟が、ふと親戚に背を向けてそのノートを手に取ると、黙って書かれた文字を追って行ったのです。私と母、父もその姿にはっとして、同じようにノートを手に取ると、黙って目を落としました。その瞬間、私は「腑に落ちた」感覚を覚えたのです。ノートの中身は、なんと歌集でした。

 日々のさりげない風景から感じたこと、「アザラシのタマちゃんを捕まえてはならない」などとニュースから感じたこと、そしてあふれんばかりの「ありがとう」に埋め尽くされた日々の日記の末尾に添えられている一首。祖母が短歌を詠んでいたなんて、その場にいた誰も知りませんでした。私はずっと、自分が短歌やそういう文章表現が好きなのは誰に似たのかと実はずいぶん昔から気になっていたのです。ああ、ここだったんだ、とそう思った瞬間、涙があふれて止まりませんでした。親や親戚は私が日記の内容に何かを思い出して泣き出したのだと思ったことでしょう。でも、違ったのです。祖母がなぜ私の文章をあんなにも大事にしてくれたのかも、祖母が亡くなる少し前から短歌を使った活動が急激に増えたこと、祖母の亡くなった日に、私の短歌のブログがひとつの成功をおさめたこと・・・後付のようでもありますが、全てのことがすっと、つながったようなきがしました。祖母は私に、お金では買えないものまで与えてくれたのでした。決してうまくはありませんが、言葉で作品を作り出すことができる、その幸せを。

 日記は20年、祖母が骨折して入院する手前まで続いていました。最後のノートの表紙には、「ただ捨てられるだけの日記」と題されており、だんだんと自分が日記を書けなくなってきて悲しいと綴られて終わっていました。そして、私に欲しいものを欲しいだけ買ってくれていたあの頃から、店がくるしくて金がなく、支払うところに支払いができてほっとした、ともありました。祖母は、そんな人だったのです。

 その日記に見える祖母の顔は、私のイメージしていた「絵に描いたような大阪人」とは全く違う人でした。まるで祖母の影のような。いや、もしかしたらあの毒気の強かった、勝気で派手好きの方が影だったのかもしれません。でもそんなこと、私にはどちらでも構わないことなのです。











散文(批評随筆小説等) ただ捨てられるだけの日記 Copyright Rin. 2008-05-27 02:16:09
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