二番地の内田さん—デッサン
前田ふむふむ

二番地の内田さん    前田ふむふむ

白いあごひげをはやして、美味しそうに、キリマンジェロを飲む、二番地の内田さんと呼ばれている、この老人は、若い人と話をすることが、何よりも好きだ。よく、真面目な顔を丸くして、恋愛談義をする気さくな人だ。でも、僕に対しては、どういう訳か、眼をそらそうとする。そして、必ず、遠い眼をする。とても、嫌悪に充ちた、氷が浮んでいる寂しい眼だ。僕は、みんなと同じように、気に入られたいと、必死に眼を合わそうとすると、怪訝に、顔をそらす。でも、いつとはなしに、決まって誰もいないとき、ひどく暗い部屋の隅で、心臓を患い、禁煙のはずが、秘密の場所から、こっそりピースを出してきて、美味しそうに、タバコを吸い込むと、遠い眼をする。そして、搾り出すように、インパール戦線の飢えのなかで、人の肉を頬張ったこと、絶望的な仲間たちの無力な戦いの話を、始める。やがて、復員してから、恐ろしい空白を埋めることができず、なんども死のうとしたこと、だから、手首には無数のリストカットの跡があると、内田さんは、重くなった口を放り出しながら、僕に近づいてきて、必ず、血の痛みをふたりで覆うのだ。でも、最後には、「昔のことだよ」と、ため息にちかい言葉を吐いて、遠い眼は、何度も海を渡る。僕は、その遠い眼を、しっかりと見つめて、決して離さなかった。内田さんは、お守り代わりに持っている、ニトログリセリンをちらつかせては、「もう、わしの時代は、とっくに死にたえている」と、不整脈の胸のなかから、海の底のような遠い眼をする。

二番地の内田さんの葬儀は、多くの知人や親族に囲まれた幸せな葬儀であつた。僕は、棺のなかに、内田さんの命を奪ったかもしれない、秘密のピースを一箱、他の人に分らないように、そっと入れた。内田さんの辿る旅が、寂しくないように。空は、晴れているのに、青く見えなかった。僕は、内田さんが、隠していた傷が、思い出されて、長い間、耐えてきた、禁煙を破り、ピースを取り出して、いかにも美味しそうなふりをして、遠い眼をした。でも、なんて狭いのだろう。身動きも儘ならない。もうすぐ、灰になり、いままでの苦しみも飛んでしまうだろうが、もう、一週間もこの儘だ。多分、忘れられているのだろう。そして、これからも、気に留められることはなく、ひとつの記録として、書架に埋もれていくのだろう。でも、総じて見れば、少しは幸せだった気がする。もう、この、ひどく暗い部屋のなかに、敵はいないのだ。僕は、数少なくなったピースに火をつけて、いつものように、遠い眼をした。


自由詩 二番地の内田さん—デッサン Copyright 前田ふむふむ 2008-05-18 01:08:36縦
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