沼の主
チアーヌ

 水面に、静かに輪が広がり、女が浮かび上がってきた。
 そしてその女は、青緑色の沼の表面に浮かび、まるで肘をつくかのような格好でこちらを見た。

 時刻は、薄ぼんやりとした昼間で、のんびりと釣り糸を垂らしていた俺は、少々驚きはしたものの、なぜか取り立てて恐怖は感じなかった。
「釣れるかしら?」
女が話しかけてきた。
「ねえ、釣れてる?」
 女の肌の色は、まるで水に透けるくらいに青白く、長く垂らした髪の毛は、一見黒に見えるのだけれど、よく見ると濃い緑色をしていた。
 女が、尋常なこの世のものではないことは、俺だってすぐに気がついたけれど、薄明るい、平和で静かな沼のほとりにいると、俺は女がおかしいことなど、あまり気にならなかった。
「見ればわかるだろ」
 俺は仕方なく、ぶっきらぼうにそう答えた。
 朝からずっと、俺は釣り糸を垂らしているが、魚は一匹も釣れていなかった。
「うふふ。そうみたいね」
女はそう言いながらゆっくりと水面を泳ぎ始めた。
 女は、薄衣のようなものを纏ってはいたが、それは透けていて、ほぼ全裸に近い姿だった。
 均整のとれた体つきに、形よく張りのある乳房、くびれた腰。滑らかな白い肌に細くしまった足首。俺は、ついつい女の体を見つめてしまった。
(足は、あるんだな)
俺は女を眺めながら、どうだっていいことを思った。
(人魚でもないんだ。鱗もついていないようだし)
「人魚なんかじゃないわよ」
まるで俺の気持ちを見透かしたかのように、女が笑いながら言った。
「ほら、足だってあるわよ。こーんなに、立派な足が」
ちゃぷん。
 女はくるりと仰向けになり、まるでシンクロナイズドスイミングでもしてみせるように、片足を水面に高く上げてみせた。そしておどけるように足首を回した。
 俺は完璧にからかわれているようだ。
「でも君は、人間じゃないだろう?」
俺は思い切って尋ねてみた。
 女は首をかしげた。
「そうね。あなたの基準で考えたら、たぶん人間じゃないわね。でも人魚じゃないわよ。幽霊でもないわ」
「じゃあ何だ?」
「そうねえ」
女はじゃぶん、と音を立てて水の中に潜り込み、中で一回転すると、また浮かび上がってきた。
「昔風に言うと、この沼の主、ってところかしら」
「なるほど」
俺は妙に納得した。
「嫌だ。納得しないでよ。なんか、主なんて、そういう言われ方好きじゃないのよね」
「でも、実際、そうなんだろう?」
「あなたが理解しやすいように、昔風にわかりやすく言ってあげただけよ。本当は、そうねえ、沼の精ね。わたしはこの沼の水から生まれた、水の精なの」
「水の精」
そう言われれば、そんな気もした。
「ところで」
女は水面に肘をついたまま言った。
「盲亀の浮木優曇華の花、ここで会ったが百年目、ね。さて、遊びましょうよ」
「百年目?どういうことだ?」
「うふふ。何まじめに取ってるの?そういう気分って事よ。ねえ、遊びましょうよ。どうせ魚なんか釣れないわよ。それに釣ってどうするのよ。キャッチ・アンド・リリースでもするの?くっだらない。そんなこと、おやめなさい。魚たちだっていい迷惑だわ。それよりも」
「それよりも、なんだよ」
女はほんのりと赤い唇の端を上げながら、すうっと水の中へと消え、そしてその次の瞬間に、水辺に椅子を置いて腰掛けていた俺の足に、白い指が絡み付いた。
「うわぁっ」
俺は思わず叫んだ。それはまるで、ブルドーザーにでも巻き込まれたように感じるくらいの、強大な力だった。
 叫び声も虚しく、俺はあっというまに沼の中へと引きずり込まれて行った。

「何、焦ってるのよ」
水の中で、女が笑いながら言う。ゆらゆらと深緑色の髪が揺れている。
「びっくりしないでよ。ほら、大丈夫でしょ」
そういわれて、俺はふと気がついた。俺はしっちゃかめっちゃか手足を動かして、慌てて水面に這い上がろうとばかりしていたけれど、よく考えたら全然苦しくなんかない。
「不思議だな。どうして平気なんだろう?」
「それはね、わたしと一緒だからよ」
女はそう言うと、俺の手を握った。その手は、思いのほか、温かかった。
「さあ、いらっしゃい」
「どこへ?」
「いいから黙ってついて来なさいよ」
女は諭すように言うと、俺の手をしっかりと握ったまま、泳ぎだした。
 水の中で、女は自由自在に動いているのだった。
 水の精なのだから、当然なのかもしれないが。

 俺と女は、奥へ奥へと進んで行った。
 深い深い沼の底へと。
 そして、沼の底は暗いものだと、俺は勝手に思っていたのだけれど、そんなことはなく、辺りはただいつまでも薄ぼんやりと明るいのだった。
「さあ、ついたわ」
女はそう言うと、沼の底にすうっと足を着いた。
 俺も同じように、沼の底に立った。
 ぬる、とした妙に温かい沼底の泥の感触が、俺の足の裏を包んだ。

 俺の目の前には、一軒の家があった。
 赤い瓦屋根に、白い壁。玄関前のポーチはクリーム色のタイル。見たこともないような花が玄関脇に植えられ、風、じゃない、水流に揺れている。見たことはないが、きれいな花だ。が、しかし沼の底に花など咲くのか。造花かもしれない。そう思って見ると、その花々はまるで安い造花のように色鮮やかだった。そして、白い格子のついた可愛らしい出窓には、アーチスタイルのレースのカーテン、そしてやはり花の鉢植え。
(おもちゃのようだな。まるで、リカちゃんハウスかなんかみたいだ)
俺はぼんやりとそう思った。
「さあ、ここよ」
女が得意気に言った。
「何なんだ、ここは」
「わたしのうちよ。素敵でしょ」
「なんだかちょっとメルヘンチックだな」
俺がそういうと、女はちょっと膨れっ面をしてみせた。
「やっぱりね。そういうと思ったわ。でも、まぁいいわ。入って」

 中に入ると、女は無言のまま、廊下の奥へ奥へと進んで行った。
 外から見た時は、そんなに奥行きのある家に見えなかったのに、どこまで行っても、廊下は終わらず、先ははっきりとは見えないのだった。
 そしてしばらく行くと、女はようやく立ち止まり、正面のドアを開けた。

 女について中に入って行くと、そこには大きなベッドがあった。
 部屋の中は安っぽい装飾で満たされ、どこからともなくローションの香りがしてくるのだった。
「早く、いらっしゃい」
女はさっさとそこへ横になると、俺を呼んだ。
 そうして、何のためらいも無く、申し訳程度に纏っていた薄衣を脱いでしまった。
 青白い体は、薄ぼんやりとした蛍光灯のような明かりのなかで、ますます白く見えた。
 何度も洗った後のような、白くて清潔なシーツの上に、ふたりで横たわると、布団がとてもふわふわと柔らかいのがわかった。
「気持ちいいわね」
そう言いながら、女の腕が俺に巻き付いてきた。
 一瞬、海の中で海藻が、ぐるぐると巻き付いて来るような感触がしたけれど、それはそれでいいと思った。巻き取られ、優しく締め付けられるような。
「そうだな」
俺も同意した。
 女は俺の頭を優しくなでながら、まるで子供に言うように、
「いい子ね」
と言った。
 そして、ベッドの上に半身を起こし、ゆっくりと両足を大きく左右に広げ始めた。
 俺も半身を起こし、女を見た。
 女は薄く笑いながら言った。
「さあ、お待ちかね。面白いものを見せてあげるわ。ねえ、見たいでしょ」
俺は黙ったまま女を見ていた。

 女が両足を大きく開くと、そこには真っ赤な空洞があった。入り口は血の色で赤く、奥へ行けば行くほど真っ黒になって行くようだった。
「ねえ、覗いてみて」
女にそう言われ、俺はそこへ顔を近づけた。
 こんなおかしなものを見たのは、初めてだった。
 ぐにょぐにょ、ぐにゃぐにゃとした肉の内部は粘膜で覆われているけれど、その奥がどこまで深いのか、俺には見当もつかなかった。
「そんなんじゃ、よく見えないでしょ。もっと奥まで見るのよ、さあ」
女がそう言いながら、俺の頭をぐいっと押さえ、女の足の間にあった真っ赤な空洞へ、俺の顔を押し付けた。
 その力は、さっき水の中に引きずり込まれた時と同じように、強大な力だった。
 まるで巨大なクレーンの先に取り付けられた鉄骨のように、俺は、女の空洞へとセットされてしまった。
 そして、真っ赤な空洞が、ぴたりと張り付くように、俺の顔に吸い付いてきた。そうしてそれは、俺の顔面を覆い尽くし、俺の顔についているすべての穴を塞ぐように浸食して来た。

しかしそれは、とてもやわらかで、優しい感触だった。
「もっとよ、もっと奥まできて」
女は言い、俺の頭をがっしりと両手で掴み、ぐい、と真っ赤な穴の中に、俺の頭をすっぽりと納めてしまった。
「ああ」
俺はつぶやいた。
 首から上が、女の中に入り込み、俺の頭と顔は、ぴったりと生暖かいものに包まれた。

 全く身動きが取れないまま、俺の体から力が抜け、俺は次第にぼんやりとしていった。
 すると、俺の足首を誰かが掴み、ぐいぐいと、空洞の奥へ奥へと、俺を丸ごと入れてしまった。
 俺は全身を、まるで高圧のクッションのようなもので包まれたように感じた。
けれど、絶えず、ぐにゃぐにゃした感触が体中を撫で回してくる。 
 俺はすごく気持ちよかった。
 俺は、その中で、体勢を整えるように、静かに丸くなった。

 



散文(批評随筆小説等) 沼の主 Copyright チアーヌ 2008-05-10 14:52:53
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