ホタル
chick

 あなたがベランダで飛ばすホタルがどうしようもなく愛おしい
 わがままを言うのならばもう一度、あのホタルに逢いたいと思った
 夏だけではなく、年中目の前で飛ぶホタルがいた
 真っ赤な奴がいた


 夏の夜は決まって、窓ガラス越しにあなたのシャツの背中の汗染みを見た。そうさせたのは言うまでもなく、根っからの煙草嫌いの私だったのだが。
 いちばん好きな季節は春と秋。ベランダに出るのに丁度いい涼しさだから。そしていちばん嫌いな季節は夏と冬。ベランダに出るのに暑いし寒いから。そう苦笑いして言いながらも、ベランダの戸を開けるあなたが好きだった。
 いつも口では文句を言いながら、それでもあなたはホタルを飛ばし続けた。
 ガラス越しにあなたが見えて、あなた越しに細い白煙が見える。
 今日は少し、風が強いようだ。
「お仲間が、たくさんいる」
 戸ががらっと開いたかと思えば、あなたはホタルを片手に私を手招きで呼び寄せた。思った通り、開けられた窓からは少し冷たい風が勢いよく入ってきた。
 ここに引っ越してきて初めての夏。私は初めてあなたとベランダに並んだ。そして、初めて一緒にホタルを見た。
 都会の夏の夜には、ホタルを飛ばす「お仲間」がたくさんいた。数年前にできたばかりのこのマンションにも、同じくらいにできた向かいのマンションにも。真っ赤な奴は姿を見せた。
「都会のホタルだね」
 そっと見下ろすと、ホタルは確実に数を増やしている。真っ赤な火種を持ち合わせて、きっとみんなシャツに汗染みを作っているのだろう。あなたと同じ、誰かにベランダに追いやられて。
 ホタルは夏の夜空に映えるけれど、それは決して故郷で見た綺麗なものではない。それでも単調な赤は夜空によく映えた。


 春に初めて田舎から上京したときの心細さがふと頭をよぎった
 上京したての頃、一人きりになる昼間がどうも苦手だった
 ゆっくりと洗濯をした、ゆっくりと片づけをした
 そのうちに会社からあなたが帰ってくると思って


 通りすがる自転車も、真昼の明るすぎるビルの窓も、点滅する信号機も、すべてが嫌になった頃があった。東京なんか来るんじゃなかったと、何度も里帰りを考えながら排気にまみれた空を見上げていた。人情がないと思っていた。優しさが見つけられなかった。
 滲む目で見た都会の夜景は綺麗でもなんでもなく、腫れた赤い目は思い出にも何にもならなかった。
 太陽も、青空も、星さえも、すべてが消えてしまえばいいと思った頃があった。あのマンションに引っ越す前のことだった。
 東京は怖いところだと聞かされ続けた子供時代だった。祖父母も両親も反対した上京だったが、私はあなたが好きで好きで東京までついていった。
 あなたのことをほとんど愛していたのだ。つまり、その、煙草以外。
「不安?」
 食事時、一度だけあなたが私に聞いたことがあった。不意に揺れた空気が私を余計に心配にさせ、すべてを言ってしまえる雰囲気を消した。
「ううん、楽しいわ」
 私は箸を止めずにそう言った。赤い目を見せないようにうつむきながら、みそ汁をすすったことだけは覚えている。そのときあなたはそうかとぽつりと言って、やはり私に背を向けてベランダへ出ていった。ささやかに、習慣と煙草嫌いの自分を恨んだ。
 余計に煙草が嫌いになったけれど、今では鼻で笑える。もう目を腫らしてはいない。
 よく煙草をきらしたあなたについていくコンビニで、私は初めて東京での親友ができた。夫の煙草をよく買いに来る主婦だった。
 煙草って嫌ねぇ
 そう苦笑いで言ったその人に、そうよねぇと自分が自然に返事したのに驚いた。


 胸騒ぎというものは、幸せなときに限ってどこか鈍っている
 いつもは感じる「悪い予感」も幸せに押されてしまっている
 このままでいいと願いすぎていたから
 私は、突然の出来事に頭が回らなかった


 いつものように煙草と灰皿を持って、シャツに汗染みを作ってベランダへ出ていったあなたは、少し鈍い音と短いうめき声と共にベランダから姿を消した。
 窓の外を見ると残っていたのはあっさりとした夏の夜空だけで、当然ホタルは飛んでいない。あなたもいなく、手すりもすっぽり抜け落ちていた。
 エレベーターの下りボタンを何度も押した。急かしてもその箱は間抜けに、ちんと鳴る。自動ドアを抜けて、自分たちの部屋の真下にある駐車場に駆け込んだ。誰かが、そこに寝転がっていた。ぴくりとも、動かずに。呼んでも、答えずに。
 信じられるはずがなかった。けれど、冗談でもなさそうだ。
 誰かが落ちたと、ホタルを飛ばしていた「お仲間」がどんどん駐車場に集まってきた。それでも私は、どうすることもできなかった。誰かが呼んでくれた救急車に乗り込んで、言われたままに質問に答えて、あなたとは一度も言葉を交わさないまま、私たちは引き離された。
 ただ印象深かったのは、人差し指と中指に挟まっていたはずの煙草がコンクリートにぽたりと落ちていて、ホタルを作っていなかったことだけだった。
 あとから冷静になって気付いたことだけれど、あの人は寄り掛かった手すりがはずれてコンクリートに叩き付けられたらしい。眺めが良いと言って買ったこの部屋は、容赦なくあなたを血まみれにした。
 雨風にさらされて、手すりのネジは悲鳴をあげていたのか。それとも、ときどき来る海風にボルトが緩められたのか。警察で調べられたけれど、私はその結果を笑えるくらい覚えていない。


 どんな言い訳をしてこのマンションを去ろうか。どんな理由をつけて…
 素直に泣きじゃくって出ていこうか
 それとも、あなたを追いかけようか
 どうあがいても、あなたは還ってこない


「大変だったわね」
 黒に身を包んだ人々が口々に私にそう言う光景は何とも奇妙だった。そして集合住宅のそう言うところが嫌いだと初めて感じ、あなたは煙草を吸うときに、左腕を手すりに寄り掛からせると言うことも初めて知った。
 何という皮肉だろうか。あなたがいなくなってから、あなたがどんどん見えてくる。
 そんな人々が口々に言うよりもうるさかったのは、田舎の家族だった。
「帰ってきなさい。こっちにくれば何とかなるから」
 何にもならないことをみんな知らなかった。たとえ私が田舎で元気に暮らしていても美味しいものが食べられても、あなたは一生還ってこないのだから。意味がない。今から何かを変えることに、何の意味もない。
 それに人が落ちたこの部屋は、私以外の誰が暮らせるだろうか。きっと、誰も暮らせない。あなたに一番近い場所で、私は一人で暮らし続ける。
 そして私はつくづく思った。煙草もそんなに嫌いではないと。いや、あなたの吸う煙草までも愛していたことを。
 けれどまた、私は煙草が嫌いになった。
 人を愛していたことなんて誰にもはかりきれなくて、それがどんな影響を及ぼしたかなんて他人にはまったく興味のないことで。それでも、過去に縋ってしまうのは弱さの所為か、愛が大きすぎたのか。
 だからといって、私はあなたの後ろ姿を毎日見続けたことを後悔していない。
 あなたを好きになったことを後悔していない。


 あれから一年が経って、また同じ夏が来た
 それでもこの部屋のベランダからホタルが飛ぶことはない
 ああ、あなたがベランダで飛ばすホタルがどうしようもなく愛おしい
 わがままを言うのならばもう一度、あのホタルに逢いたいと思った



(二〇〇六年一月)


散文(批評随筆小説等) ホタル Copyright chick 2008-05-05 20:53:19
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