バッドトリップ
風見鶏

 アルコールは好きだが普段あまり能動的に飲むような事はしない。だから、そんな自分にとって友人との小さな飲み会というのは貴重な時間の一つだったりする。ただ、その場が楽しいからこそ、後になって訪れる反動というのもまた大きいものだったりする。その日は財布に少し余裕があったのでグリーン車に乗って帰った。物思いに浸りたかったわけでもないが、ただその日は真っ直ぐ歩けない程度にはふらついていたし、なによりも終電近くのあの人ごみというのが自分はどうにも不慣れだったからだ。
 車内は予想通り静かで、電車のカタカタと揺れる音だけが特に意味も無く響いていた。
それに加えて酔いが手伝って気分が上ずっていたわりには意識ははっきりしていたので眠ろうとも思わなかった。だから、特にそれを狙ったわけでもないが、どうでも良い事を思い出すにはお誂えの状況だったのかもしれない。

 自分はいわゆる母子家庭という環境で育った。自分の記憶が正しければ兄の高校受験の時期だったので、たぶん小学二年生の時だったと思う。小学校の運動会の帰りの車の中だったと記憶している。両親の会話の内容はよく覚えていないが、それきり父が家に帰ってくる事は無かった。わけのわからない自分はただその出来事を無感動に受け入れた。
 成長するにつれて自分の家庭が特殊である事も離婚がどういったものであるかも理解していったし、両親の離婚の直接的な原因が父の不倫にあり、その根底には同居していた母方の祖母との確執があったという事も漠然と分かっていった。
 ただ、その過程で誰かの評価を変えようなどという考えにも至らなかったし、誰かを憎んだり恨んだりするような事も無かった。事態の全てを把握する頃には自分にとってはそれは全て過去の誰かの話になっていたのかもしれない。ちょうどブラウン管ごしにテレビドラマを見るような感覚で、当時の自分の生活にとっては余りに乖離した出来事だった。
 かといって格別に不幸な境遇というわけでも無かった。人並みに友人もいたし、人並みにゲームに興じたり、人並みに部活に励んだりもしていた。祖父が国鉄職員だった事もあり、その遺族年金もあって母子家庭特有の金銭的な問題に直面したのはむしろ最近になってからだと言っても良い。
 父と離婚してからも、母は臨時採用の教員として働き口があったのだが、それも体調を崩して全ての計算がご破算になった。肝臓を駄目にしてとても以前のようには働けなくなったし、祖母の体調も年々悪化していった。杖をつけば外でも歩けていた祖母が、いつしか一日の大半を椅子で過ごすようになり、それも出来なくなると今度はベッドと車椅子を往復するだけになった。祖母の介護と、自分の体の事もあり母はまともに働ける状況では無くなった。今思うと自分は部活動に勤しんでる場合じゃなかったのかもしれない。
 だから思春期の自分の家というのはとてもじゃないが人に自慢できるものではなかった。父との離婚が尾を引いて祖母と母の関係はとても良好であったとは言えなかったし、兄もそんな状態に嫌気が差していたのかほとんど家に寄り付かないようになっていた。自分の意思で自由に体を動かせなくなっていった祖母は必然的に鬱気を帯び始めて、祖母の恨み言のような叫び声を毎晩のように聞きながら眠ったものだった。

 ただ、良い思い出が全く無いというわけでもない。両親が祖母を頼って同居し始めた頃はまだ目に見えて仲が悪かったわけでは無いし、少なくとも当時幼い自分にとっては平穏な生活だった。祖父が亡くなってからもそれはしばらく続いていたように思う。その頃、祖母はよく自分を近所の健康ランドへ連れて行ってくれた。ボリショイサーカスも二人で見に行ったし、そこで虎の子供と一緒に写真を摂ったりもした。基本的に祖母はいわゆる古いタイプの人間だったのでその分厳格ではあったが、自分の思い上がりでないのならば良好な関係であったと思う。それがいつからか、そうではなくなってしまった。

 全て昔の話だ。今となっては自分と祖母の関係は一言では語れるものでは無い。根底ではお互いを疎ましく思っている部分もあるだろうし、根底では肉親に対する親愛の情のようなものを持っている部分もある。どちらがより深い場所にあるかは自分自身にも分からないし、だからきっとそれはそこまで意味の無い事なのだろう。酷く歪なものであるとは思うが、自分にとってはそうなるより他無かったと思うし、仮にここまで歪ませずに済んだ可能性があったとしても、なってしまったものは仕方が無いようにも思う。

 こんな風に余分な思考をそぎ落として普段考えないような事に頭が回ってしまう。たぶん自分はそれを心のどこかで自覚しているからこそ、能動的に酒を好もうとはしないのだろう。この長いバッドトリップが終われば、ふと思い至ったこの想念をも忘れて、自分の日常へ帰っていければ良い。そうあるべきだと思うし、そうであって欲しいと思う。


散文(批評随筆小説等) バッドトリップ Copyright 風見鶏 2008-05-02 04:24:26
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