卒業
Utakata




全ての旅立つ人のために

***

湯気を立てているお茶のカップと
小さく開いた窓から差し込む朝の光と
四月の風に揺れる薄いカーテンを
置き去りにしたままで部屋の鍵をかける
鍵はこれから瓶に詰めて海へと流すので
もうこの部屋に戻ってくることはない
閉まりかけるドアから最後に見た風景は
何も知らずに持ち主の帰りを待ち続けるようにも見えた

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手のひらにはもうひとつ
このあいだ受け取ったばかりの見慣れない鍵がある
その鍵に合う扉を探す長い旅が
いまから始まろうとしている

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旅に持っていけないたくさんのものを捨てる
幾つかのものにはあまりにも多くの記憶が染み付いている
友達と永遠に別れるように
あるいは自分の身体を切り取っていくように
それでも最後にはそれら全てを
地面に掘った大きな穴の中へと埋めてゆく
穴を埋めた後で
その場所に苗木を一本植える
もしも樹に成長したそれを見る日があったとしても
地面を掘り起こすことができないように

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体中から生えた電話線を
よく研いだ鋏で一本ずつ刈り取ってゆく
一度しか使わなかったものもあれば
その上で無数の会話を交わした線もあった
切り取る前に
ひとりひとりにさよならを言う仕事を済ませてゆく
足元に千切れた鉄線がはらはらと落ちる

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しあわせでありなさい
別れるときにひとりの大人がそう言った
その人の言うことは正しいとは思うが
今のところはその言葉を忘れなければならない
旅が終わるときにたぶん
その言葉を思い出すときが来る

とりあえず死ぬな
さよならを言うとき
ひとりの友達が独り言のようにそう言った
その言葉だけは覚えていく
旅立つにあたっての数少ないルールの一つ
生きのびること

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夜明け前の川へ向かう
既に前の部屋の鍵は瓶の中に詰めて蓋をしてある
河川敷で
水に浮かせた瓶をそっと押し出す
もしかしたらある日
浜辺に寄せられたそれを再び拾うかもしれない
その日が来ても
あの部屋の風景を覚えていられればいいと思う

***

手に持った新しい鍵と
自分自身だけが後に残る

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扉を求めて
どこへ行くべきかは分かっている
海を越えたところにある別の大陸
もう一つの言語
その都市で出会うだろう数多くの人々
同じ鍵を持った 今とは全く異なる自分
冷たい鍵穴に滑り込む
滑らかな感触
それを探して

***

電話線はもうないけれど
自分の名前はまだ持っている
さよならを告げるときに
たまに思い出したら互いの名前を呼ぶように約束をした
今までに出会った人々の名前を
一つずつ口ずさんでゆく
呼んでくれれば
そこにいるから

***

昇ったばかりの太陽を目印にして
東の方向へとゆっくりと歩き始める

さしあたっては
まず港のほうに向かってみようと思う




自由詩 卒業 Copyright Utakata 2008-02-24 05:03:44
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