批評には苦手意識を感じてしまうけど、書けるようになりたい。
重い腰を上げるには自分の好きなものと関連させてしまおう。
と思ったのですが、余計悩んでしまいました。
犬の詩は犬好きから冷静な判断を奪ってしまいます。
なので、失礼になってしまいますが、冷静な判断を失った言葉で
書きますが、感じたことを言葉にする練習として許してください。
「現代詩文庫56 吉原幸子詩集」(思潮社)から
詩集「幼年連禱」の「仔犬の墓」
もうタイトルの時点でずるいでしょう。
墓っていうだけで涙目になるのに、仔犬って!
第一連
地のなかに 仔犬はまるくなって お菓子の紙袋を前あ
し抱いて 眠ってゐる
お菓子の紙袋を!前あしに!(すみません)
時代ですね。今は「ドッグフードしか食べさせちゃダメ」とか
「おやつや料理もペット用のみ」という時代らしいですが
昔はあまり詳しいこと知らなくて、人間の食べるものをそのまま
あげていました。
なので、「お菓子の紙袋」をお墓に入れる気持ちがわかります。
しかも「お菓子の紙袋を抱いて」出なく、「前あし」という単語
を入れるなんて想像しちゃうじゃありませんか。
ヤダ!想像したくない!
本来もの抱くような形でない「前あし」、
肉球の温かさを感じさせる「前あし」
でも実は、既に持つ力も温かさも失われているんですよね。
(中略)
二連目、三連目は 忙しくて相手にしなかったことや
病気に気づかなかったことへの侘びなどが書かれています。
最終連
しっぽといっしょにお尻までふってたおまへ なげたビ
スケットをどうしてもうけとめられなかった おふるの
首わがゆるゆるだったおまへ 捨て犬でなくなってから
たったひと月 あんなに いのちをよろこんでゐた は
づかしいほどなめてくれた みつけてくれた おまへ
茶いろのやせっぽっち
愚かさほど愛情を刺激するものはありません。
犬は考える動物でありながら、「お尻をふる」という最も格好悪い
動作で喜びを表現する。
ビスケットを受けとめられなかったのには、
仔犬ならではの不器用さともとれるけど、
飲み込みの早い仔犬ではなかったという性格や個性も感じさせ、
無二の存在であったことが伝わってきます。
四行目の「いのちをよろこんでゐた」には考えさせられました。
それまでの言葉との触れ合いで培われたセンスが
思い出が押し寄せるときにも、こういう表現を生むのだなぁ、と
自分の犬との似たような体験を思い出しながら感心しました。
目に浮かぶ喜んでいる姿は、犬自身は他の事で喜んでいるはずだもの。
やはり溢れる感情のままのように見えて、作品として形となっている
のだと思いました。
最後「茶いろのやせっぽち」で終わるところも、それを感じます。
でも単純に、だからお菓子を抱かせたんだな、
もうそれでいいじゃない!という気持ちにもなります。
吉原幸子本人が「幼年連禱・NOTE」の中で、納めた詩について
「作品としての不完全さの意識が、長い間、私に詩集をまとめる勇気
をもたせなかった」と書いています。
確かにその後の詩集の方が情の流れや風景やイメージが比較的、複雑
で奥深いと感じました。
どうなんでしょうね。何が良い詩なのか、感動させる詩なのか。
私は「仔犬の墓」に揺さぶられて、返って犬が出てくるの詩は素直に
評価しなくなりましたよ。
やはり犬や動物が好きでない人にとって、どう感じるのかを考えると
作品としての好みではない部分で、極端に読む人を偏らせてしまう。
あまりにも冷静さを失うので、他の詩と同列で読むことができないです。
なので、屁理屈かもしれないけれど、通常の「詩を読む」という行為
と離れたところで触れたい。
別のところで、思いっきり「大好きだ」と叫んでみたい作品です。
でも、詩を書いてない人に詩を紹介するときには、
その人が動物好きであれば真っ先に見せたいです。
宣伝効果抜群ですね。