批評祭参加作品■狐のかわごろも
石川和広

 なぎら健壱のアルバムを聴いた。詩も面白いし、演歌だか民謡だか流しだかフォークだかパンクだか前衛だかわからないセンスの良さ。さらに美声。しょぼいはずなのに全然貧乏くさくない。もっとふざけた人かと思ったが、半端な感じではない。昔読んだ彼の『私的フォーク大全』という70年代フォークの列伝も面白かった。知性とか理性が、泥臭さを排除することなくなりたっているので、上品なんだと思う。ほめすぎかもしれない。

 
 駅のゴミ箱に 頭をつっ込んで
 ゴソゴソ かき回す奴らを笑えるか
 奴らの目ざすものは 東京スポーツ
 東スポ中毒笑えるか 本当に笑えるか

 ゴミ箱で見つけた そうした新聞が
 工業新聞だったとき 意識がとうざかる
 それでも やっとさがしだす 東京スポーツ
 きたないものでぬれている しっかり汚れている

 (なぎら健壱作詞‘ラブユー東京スポーツ‘より)

 曲の題名は「なみだ〜のとおきょう」で、おなじみのアレです。「笑えるか」という問いかけは大まじめだし。
 また、「工業新聞」も、いいです。
 「きたないものでぬれている」は、かなりいいです。
 正直、題材が古くなっているんですが、大阪でいうと地下鉄の千日前線
って、感じでしょうか。東スポなんですが。駅のゴミ箱って、オウム事件の辺りで激減しましたね。ある時代の平和や大衆や貧乏なんだけれど、ルポルタージュ風に何かを定着している気がします。
 なんだろう。「きたないものでぬれている しっかり汚れている」って叙情で歌っている形で、相当リアルなのかなと。新聞の質感から漂うどうしようもない感じ、読み捨てられるためにある虚ろさでしょうか。
 
 中原中也の有名なフレーズに「汚れつちまつた悲しみに」って、ありますね。あれと東スポの汚れは遠いのか近いのか。なんでしょうね。「つ」という撥音が二回出てくると変ですね。例えば…

 汚れつちまつた悲しみは
 たとえば狐の革裘(かわごろも)

 革裘?調べました。何で狐なのかな。妙に気になります。こういう諺があるようです。
引用します。

「狐裘羔袖」(こきゅうこうしゅう)
全体としては立派に整っているが一部に不十分な点があるたとえ。また少々の難点はあるが全体から見れば立派であること。
高価な狐の皮衣に子羊の皮の袖をつける意。「狐裘にして羔袖す」と訓読。
http://yojijukugo.hp.infoseek.co.jp/15.files/sonota.htm

どうも狐のかわごろもってのは高価で立派。でも、それだけじゃないようです。中国で「狐のかわごろも」がもっている神話的な力について。


『春秋緯』では「帝伐蚩尤乃睡夢西王母遣道人、披元狐之裘以符授之」と黒い狐の裘が特別な力を持っていたとしている。
裘に限らず九尾の狐や白狐、玄狐などは古来より神聖な力を持っているとされ、その姿を現わすことは吉兆や不幸の前触れとされていた。九尾の狐については現在では『封神演義』で有名な殷王朝を滅ぼした狐精の美女妲己の話が有名である。『封神演義』は明に書かれたものだが、「狐が妖獣であるイメージは古くからあり、紂王をその魅力で誑かした妲己の狐説は古くから信じられていた」[一一]と二階堂善弘氏は言っている。
http://www.hum.ibaraki.ac.jp/kano/student/00takahoshi.htm
(中国志怪小説の研究―狐のイメージの変遷―高星さおり)


 例えば日本では狐憑きやらがありますね。ある種の狂気というかトランスというか。中国では霊力さえあるんですな。
 何が言いたいかっていうと、中也の言葉が「狐の手袋」だったらまたイメージがちがいます。「子ギツネこんこん」とか。その後雪も出てきますし。でも、それらにも通じているし、また古代中国だけでなく日本でもそうだけど得体のしれないエネルギーのことでもある。かわいくて、こわくて、あやしくて、警戒心が強くて。変なんだけど高貴で、音楽に満ちている着物。着物ってのは、裸をかくす衣装だから、それによって他人を誘惑します。中也における誘惑的な他者性あるいは魂なのかなあと。
 
 中也の詩は独特の古代的な調べがあるから、よけい遠くへいける。引用します。

 汚れつちまつた悲しみは
 なにのぞむなくねがふなく

 ここもすごいですね。のぞむ、ねがふ。それぞれちがう言葉なんだけど、近いような。
調べもいいですね。次も引用。

 汚れつちまつた悲しみは
 倦怠(けだい)のうちに死を夢む

 「けんたい」っていうと、倦怠期みたいですけれど、「けだい」って読むのですね。「けたい」だと「懈怠」で仏教の言葉のようです。ある「懈怠」の解釈について引用します。


『法相二巻抄』には、
もろもろの善事の中に怠りものうき心なり。
といわれている。善事をしないのである。おそらくは、しなければならないという気持ぐらいはあるのだろうが、実行できない。善事が実行できなければ、後退あるのみということになる。人間は生きている限り、前進か後退のどっちかである。とどまることはあり得ぬから、前進しなければ後退のみが残るということになる。 ピアノのことであったのだろうか。一週間練習を休めば誰にもわかる。三日休めば、一般の人にはわからなくても専門家にはわかる。一日の怠慢は、聴衆の誰にも気づかれなくても、本人にだけははっきりわかるというのを聞いたことがある。これはピアノに限ったことではないであろう。人生万事、きっとそうに違いない。
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki30.html


 中也のいう「倦怠」は、この文でいうと「一日の怠慢」にあたるような「聴衆の誰にも」気づかれない場所で感じる過失に近いのではないでしょうか。それは誰にも気づかれなくても何かが見ている。けれど、何が失敗であるか感じているのだけど、表出できないために苦労するどうしようもないものかもしれない。中也のこの詩は恐らく青年期の心理みたいにも読めるでしょうけれど、謎の欠落を抱えているためにどうしようもなく愛したり愛されたりする。そして、そのことに盲目であるためにどうしていいかわからなくなる人間の条件ではないでしょうか。

 例えば子どもの頃、夢は何かと聞かれて「サッカー」と答えますよね。理由は「かっこいい」とか。でも、いつのまにかサッカー選手でなくて、ただの工員になってたりする。この仕事が好きだという自信はなくて、なぜその仕事しているのと聞かれて、「生活があるから」と答える。でも、中也は「なぜ生活するの」まで聞いてしまう。あるいは、「なぜ生活するんだろう」と思いながら、進めない。例えが間違っているかもしれませんが。

 しかし、時々、だれでも「なぜかな」って考えることもあるかもしれない。考えてなくても感じていて悩みがある。けれど、目の前のことをかろうじて、やって何かしら糊している。中也はそういう役割とか脈絡が外れている。むき出しの欠落です。それは、青年期とか何とかではなくて、そういうぶらりとした状態をかろうじて我々は「愛」や「私」で埋めているのかもしれない。けれど、生きているのは、そういうかろうじて埋めている状態なのです。中也は欠落を埋めなくて、そのことにも罪を感じています。そういう形で、そうとしか生きられないんだけれど、それが限界なんで、それはいい悪いの問題じゃないといっている。
 
 いわば、中也は、生活と生活からはみ出してしまうもののうち、生活を切り落とす。生活を切り落としてしまったら、生活からはみ出してしまうものは空白というか存在しないものになります。幽霊とか、確かに狐のかわごろもみたいな得体の知れない何かになってしまう。幽霊だとしたら死ねないわけで、だから「死を夢む」なんだと思います。

 なぎら健壱から離れてしまいましたが、「思へばとほくへきたものだ」ということでお開きです。でも、中也は常識の常識みたいなことを述べている気がしてしかたないのです。
 それは「悲しみ」にしては「汚れ過ぎていて」、もう何の変哲もない残骸のように感じられる何か。無理やりこじつければ、ぬれた東スポみたいな。そのもののしょうがなさのような。愛おしさのような。
 どうしようもない物狂い。物狂おしい感じ。やっぱり「ラブユー」かなあ。

2007.1.18


散文(批評随筆小説等) 批評祭参加作品■狐のかわごろも Copyright 石川和広 2008-01-28 21:52:49縦
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