よしこちゃんのピアノ
縞田みやぎ

よしこちゃんは ピアノをもっていかなかった

彼女が五十一のとき のこっていたじいさまが死んで
よしこちゃんはもう 親のない子になった

その家は 彼女が大人になる頃に建って
夏と冬の休みには
住み慣れない家に ただいまをした
そこに帰ることも
そこを発つことも
よしこちゃんは ずうっと 旅をしていた

人のない家は穴があくので
整理をはじめたのは五十二のとき
子どもたちに食器を分けて
服と本と写真をくくり
手紙のたばをもちかえった
手を入れて 壁を貼って
誰ともなしに 貸しに出すのだ

紙鍵盤を弾いたんだ と
笑わないで話す
わたしの時分にはこれがなかったから
紙にかいたのをもらって たたいて
毎回レッスンのときに はじめて音をきいた
こづかいで楽譜買ってならべて
これが来たときには くちがきけなくて
妹が弾いてた
わたしは くちがきけなくて

よしこちゃんは ずうっと 旅をしていた
子どもが生まれると彼女は
自分の家にピアノを買った
子どもたちがつまづいて弾くのを
せんたくと炊事の耳できいた
ブルグミュラーの牧歌くらいなら
今でもきっと弾けると思う と
笑わないで話す
大人になってから少しだけ もう一度習ったけれど
いそぐことでもないし

もう その前に座ることもない

二十年ともっとすぎて
妹が家を出て ばあさまも死んで
ピアノの弦は少しずつ黙り
ぐいと押すと 間延びて音がゆれた
これ付きで貸しに出そう
言いだしたのは五十三のとき
ピアノはもっていかない
おもいから もっていかない

よしこちゃんのピアノは うたうけれど
よしこちゃんのピアノは もう うたわないのだ

手入れもじき終わるころ
よしこちゃんは 子どもたちに電話をかける
あんたはあれを弾いたよね
わたし 置いてきてしまったの と
笑いながら話す
下の子も習うのをやめたから
ピアノの弦は少しずつ黙る
いそぐことでもなし
いそぐことでもなし

笑いながら

よしこちゃんは ずうっと 旅をしている


自由詩 よしこちゃんのピアノ Copyright 縞田みやぎ 2008-01-24 01:09:06縦
notebook Home 戻る