【エッセイ】裏庭について – それからすこし家の話
mizu K

   裏庭について – それからすこし家の話

 北里、という地名がある。しばらく住んでいた時期があるが、そこの風景を思い出そ
うとすると、まず祖父の家の入口が面している道路から左手、道が急な下り坂になって
い、くだりきったあたりは十字路と畑と川、それから道はまたなだらかにのぼりはじめ、
こんもりと覆いかぶさる木々のトンネルの下を通っている景色である。別のところには
そでひき坂という名の急な坂もあるし、墓地や金比羅に行くにも急勾配の坂をのぼらな
ければならず、それではその町全体に坂が多く、いわゆる坂の町かというとそういうわ
けではない。おそらくそのあたりからぐるりとゆるやかに海に向かって沈んでいるので
あろう。海岸まではまだまだ距離があるけれども。
 祖父の家の入口も、道ばたからすぐに3mほどの急な傾斜をのぼらねばならず、のぼ
れば車が2台とまれるほどのスペースくらいで、そこからはもう家屋であった。以前は
農機具や仕事用具などが置いてある棟続きの半開放の小屋というか下屋がまず手前にあ
って、その奥が母屋、手前の右側が台所と、逆L字型の格好であったと記憶しているが、
いつのまに改築したのか小屋の部分は玄関と座敷と縁側になっていた。
 その家には、裏庭といえるかわからないが、裏っかわに小さな庭があった。「庭」と
いってもそう大したものではなく、とりあえず空間があるので、ツツジや水仙を植えて
みました風情の、西日本の一般的な日本家屋によくあるなんの変哲もないものである。
そこではそれほど遊んだ記憶はないのだが、なぜだか柿の木に登っていた父か伯父を下
からぽかんと見上げていて、落ちてきた木片が目に入って大慌てとか、そういうことは
あれど、いま考えればこぢんまりとしつつもなかなかゆたかな庭であった。空はやや南
西にむかってひらけていて、妙見と金比羅が見える。その空はたいてい晴れていたよう
に思う。春には、金比羅の桜の群生がぼんやりかすんでほんのり白く灯る。

***

 「裏庭」というものはどの家や屋敷にあるわけでなく、あってもそれがすきな人、き
らいな人、目にも入らない人等様々である。であるから必ずしも誰にでも必要な場所と
いうわけではないが、それを切実に求めざるを得ない人がいることもまた事実である。
いくつかの文学作品には裏庭(あるいは外界から隔離された庭園、もしくはそれに類す
る空間)は非常に重要な場と時間を提供するものとして現れている。代表的なものでは
バーネットの『秘密の花園』があるし、ほかにフィリッパ・ピアスの『トムは真夜中の
庭で』、梨木香歩にはまさしくその名の『裏庭』がある。
 これらの作品の共通項としていえることのひとつには、主人公またはそれに近い位置
にある人物が、心のベクトルがやや内側にむきやすい、いわゆる「内向的性格」を持ち、
身体的にも病弱であるこども(や大人)、が登場することが比較的多いようだ。そして
裏庭は、彼/彼女らにとって重要な役割をはたす。つまり、外からのはたらきや刺激、
圧迫に対して、まだその対処法を獲得しておらず抵抗力も持たず、たよりなげで、閉じ
こもりそうになるこどものこころを育て、はぐくむための場としてのそれである。
 一方では、外界から隔離されるということは内から見れば、閉じこめられることと同
義ともとれ、「囲われた場所」に対して閉塞感を感じるのではないかという見方もある
だろう。しかし、この時点ではそれよりも「まもられている」という強い安心感のほう
が彼/彼女らには大切であり、おそらくは、そこに閉塞感を感じはじめるならば、それ
は裏庭をはなれ、外部、外の世界へ踏み出す萌芽が生まれつつあるということにもなろ
う。そこからさらに外界で「確かな足どりで歩き出せる」かどうかはまた別の話ではあ
るけれども。

 さて、「裏」が存在するには「表」が必要になるわけで、それは「光」が存在するに
は「闇」が存在しなければならない、という問題と似たところがあるかもしれない。そ
れはどちらが先に「ある」かという、ニワトリと卵の話と同じでなかなか結論がでない
ことであろうが、一方が存在するにはもう一方も存在することが必須条件なのは明らか
である*。それらはコインのうらおもてや、手のひらと手の甲のような表裏一体の関係な
のである。そして片方はもう片方で代替することは決してできない。
 さらに庭に関していえば、「表」とは、外に面した「前庭」であるともいえるのだが、
本来、庭という場所がつくられるところには、ゆるやかであれ厳然としたものであれ、
一定の囲いや境界が存在する。なので前庭ももちろん庭であることに変わりはないので
境界を必要とする。そしてそれを隔てているものには生垣、石垣、柵、塀や壁によるこ
とになるが、裏庭においては、それが「裏」であるが故に、ある特殊なドアや、比較的
狭い通路(そしてなるべく石造りかそれに類するものでトンネルのようになっていて、
苔が生えていたりやつるがぐるぐる巻き付いていたり薄暗くてコウモリとかいて、先の
方がぼんやりとあかるくなっていて水のさらさらと流れる音がきこえてそれからさらに
なんともいえないいい匂いがしてくれれば、なおよい)をくぐってそこに入らねばなら
ない。まったく外界から切り離されているわけではないけれども「適度に」隔離されて
いなければならない。となると、牢獄のように高い塀ですべてを包囲されてはならず、
かつ光を、それも強すぎない光をおくり、庭の草木が在るための水や土壌その他一定の
条件が必要になる。いうなれば、庭が「呼吸」していると感じられることが肝要なので
ある。
 そして、それらの条件を満たすためには「家」との関わりが大きくなってくる(ホン
トか?)。つまり裏庭は、それをゆるやかに取り囲む家とへその緒のように密接につな
がるのだ。もちろん、すべての家屋や屋敷に裏庭があるわけではなく、さらに前庭もな
いところもある**。それから庭というものを必要としない家というものも確かにあり、
同様に裏庭が必要ない家というものも確かに存在する。その必要のあるなし、要請の有
無の判断基準はどこにあるかというと、それを説明するのはなんともむずかしく、そこ
に住まう人の生活方針に依拠するというと現実的で妥当な理由づけになるとも思うが、
家とは何世代にもわたって使われることもあり、貸家であればさまざまな人々が住むし、
そこでは庭をこのんで世話する人もいれば、興味もなく放置する人もいることと思われ、
とするとそこに住む人々によってそれが決定されるのではなく、それはおそらく、家の
醸し出すたたずまいであるとか、「家が、そこに求める気配」といったような、言語化
しにくい「なにか」なのである。今、「家が」と擬人化して表現したが、いってみれば
家という主体を核とする自律性のようなものであるのかもしれない。

***

 祖父の家に行くと、いつも独特のいいにおいがしていた。仏壇もあるので線香のにお
いもまざっていたのだろうがそれだけではなく、どこかかんばしい、ふしぎと落ちつけ
るものであった。柱や梁に使われている木材のにおいと思わなくもなかったが、もう何
十年も建っている古い家なので、新しい木材の発するにおいともまた違う。
 幼少のころ、まだ表に小屋があったとき、そこには新築の家の柱にするのだろう、大
きな角材が横置きに固定してあったことがある。その木材の周辺や地面には、木目のう
つった、なにか薄い紙のようなものが丸まって散らばっていた。あたりには、木のよい
かおりがする。それから伯父がやってきて鉋を掛けるのを間近で見た。しゅーっ、しゅ
ーっという音ともに魔法のように薄く削られた鉋屑(かんなくず)が彼の手もとからま
るで鯨の潮吹きのようにざあっとあらわれる。実物を見たこともないのに、パピルスの
ようだ、と思ったのを覚えている。そこには、木の生きものとしての気配が濃密にあっ
た。その生きているものが職人の手わざと感応しあって何かを新しくうみだそうとして
いる。ことばにすればたちどころに木くずにうもれて消えてしまいそうな「なにか」。
 家は、まず地鎮祭のあと基礎をつくり、それから柱や梁を組み上げていく。棟上げが
終れば餅まきがあって、そのときは近所の人々も集まってにぎやかになる。餅が頭上か
らまかれると、わーっと歓声があがり、我先に駆け寄って拾う。骨格だけみせている家
は、その光景を静かに見ている。すこしだけはじらいながら。
 私は家というものがもつ気配を感じられるようになれたのだろうか。それはよくわか
らない。それでも屋内を風が通れば、だれかがそちらからやさしく息をふっと吹きかけ
てくれるような、そんな気がするときも、たまにあるだけである。




■固有名詞は仮名

■註:
* 「光」と「闇」に関しては、私は闇にほうが「あった」と思うのだけれど、―もちろ
ん、光=善、闇=悪という、粗悪な「ものがたり」によくあるような単純な図式をそこ
にあてはめることはできない。闇とは、善悪もなくもっと混沌としたもので、「全ては
闇から生まれ、闇に帰っていく」(漫画版『風の谷のナウシカ』より)というようなこ
とに近いのではと思う。

** 物理的に土地がなくてしくしく、という側面はここでは置いておく。
 なお、ここで誤解のないように言っておくが、この文章での「家」とは日本の慣習的
制度とその制度下での建物ではなく、近代以降の「住まい」としてである(日本が果た
して本当に西欧的近代を経験したのか、じつは目に見える表層だけで深層を取り入れる
ことは結局できなかったのではないかという疑義もあるがここでは言及せず、やや一般
的で社会通念的な意味での「家」である)。


■文を書くにあたって参考にしたりうろ覚えに記憶していて文の底に置いたり、文中で名前を出したりした作品
・梨木香歩 『春になったら苺を摘みに』, 『裏庭』, 「家の渡り1」『考える人2007年冬号』所収
・バートン 『ちいさいおうち』
・バーネット 『秘密の花園』
・ピアス 『トムは真夜中の庭で』
・宮崎駿 『風の谷のナウシカ』全巻
・ル=グウィン 『ゲド戦記』全巻


■参考文献
・脇明子 『ファンタジーの秘密』 沖積舎 1991.

■ほかにもこんな作品とか文献とかあるよーとかこれ読んでないのはどうよとか
これ読んでないのは信じられんとかこれを読めばかーとかいうのがあったら教えてくださーい
誤字脱字文法間違いご指摘も足軽に、もといお気軽に



散文(批評随筆小説等) 【エッセイ】裏庭について – それからすこし家の話 Copyright mizu K 2008-01-08 00:18:06
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