ワレラノナノリノモトニ
七尾きよし

 
 心臓の鼓動を感じたとき、あっ!わたしは生きているんだ。こんなに確かなリズムを刻みながら、今生きているんだ。と驚いたことがある。
私の生命を刻む心臓を「わたしの心臓なんだ」として見つけることで喜ぶことは、それだけわたしが生命としての身の事実から遠のいて生きていることを表しているように思う。自分自身の生命を対象として観察し、当たり前にしていたことを再発見することで感動する。感動するし、自覚を促される出来事なのだが、身の事実と私との距離感を感じさせる出来事でもある。
私の心が苦しい時、私は苦しみを消そうとする。苦しみの原因となっているものを見つけ出して消しさらなければならない、もしくは、「この苦しみは成長のための苦しみなんだ。美しい存在になる成長の過程に苦しみは伴うもの。」もしくは「これは何かのメッセージなんだ」という風に、どこまでいっても私が中心で、苦しみが対象にしかならない。対象として消し去る、もしくは対象として受け入れる。どちらも同じことだ。
私の心が感じることは、私にとってどこまでいっても対象でしかなく、心が感じている苦しみを私の事実として生きるということにならない。
私は私が私であることが受け入れられないのだ。
現在の自分の状態を身の事実として受け入れることなく、「変化する・変化させなくてはならないもの」とすることで、ますます身を悩ましていく。
受け入れることができないようにできているのだ。
私たちはそんな身の事実を私の現実として受け入れることを拒否している。私によって存在することを拒否された私の身心はどんなに悲しんでいることだろうか。
たった今、私が感じていることは何かのためのプロセスではない。
特に私たちが存在を否定しようとする
 貪欲・怒り・劣等感・悲しみ・不安 といった状態。
それらは人生のプロセスとしてあるのではない。
そう感ぜずにはいられないのが、この身の事実なんだ。

 今、はじめて生きよう。かけがえのないこの煩悩具足の身を。かけがえのないものをかけがえのないものと思えないこの身を。
ともに。われらの名告りのもとに。














散文(批評随筆小説等) ワレラノナノリノモトニ Copyright 七尾きよし 2007-10-19 03:56:59
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