エドワード・W・サイードと金縛りと追記
んなこたーない

エドワード・W・サイード「知識人とは何か」

・ものの本によると、鮎川信夫は「全員が賛成した意見に対しては、
 その事だけで、知識人たるべきものは、反対する理由がある」と言ったという。
 また、「誤ることを恐れないでもの言いする必要があるときがある」とも。

・金子光晴に「反対」という詩がある。その最終連。
 「僕は信じる。反対こそ、人生で/唯一つ立派なことだと。/
  反対こそ、生きてることだ。/反対こそ、じぶんをつかむことだ。」

・鮎川は「戦前はファシズムに、戦後はコミュニズムに抵抗を感ずる」といい、
 金子はヨーロッパやアジアを放浪した経験を持ち、また、抵抗詩人としても名高い。
 つまり、両者はともに、一種のアウトサイダーだったわけである。

・「アウトサイダー」「アマチュア」であることを使命とするサイードの知識人観には、
 教えられるところもあるが、同時にいささか単純な気もする。

    知識人はいつも、孤立するか迎合するかの瀬戸際に立っている。

    知識人にはどんな場合にも、ふたつの選択しかない。
    すなわち、弱者の側、満足に代弁=表象されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、
    あるいは、大きな権力をもつ側につくか。

    知識人として自分には、ふたつの選択肢がある。
    ひとつは、最善をつくして真実を積極的に表象することであり、
    いまひとつは、消極的に庇護者や権威者に導いてもらうようにすることである、と。

    知識人が直面する大きな選択とは、勝利者や支配者に都合よい安定状態を維持する側にまわるか、
    さもなくば――こちらのほうがはるかに険しい道だが――、このような安定状態を、
    その恩恵にあずかれなかった不運な者たちには
    絶対の危機をもたらす危険なものをみなしたうえで、従属経験そのものを、
    忘れられた数々の声や忘れられた人間の記憶ともども考慮する側にまわるかのいずれかである。

 強者、弱者の二項対立をたて、あくまで弱者側につくべきであるというサイードの議論は、
 端的にサルトルの流れを汲むもので、左寄り、といってしまえばそれまでだが、
 要するに権力=絶対悪という固定観念が前提にある。
 (サイードは序文で、本書の内容が左翼的であるという指摘にたいして、この本のなかで頻繁にひきあいにだされている
  ジュリアン・バンダは右翼陣営に属している、とか、何だか訳の分からない釈明を書いているが)
 しかし、これがサイード自身が嫌悪する「ドグマ」でなくてなんであろう?
 かれ自身の言葉を借りれば、「いっぽうの側を善であり、もういっぽうの側を悪と決めつけるような分析は、
 真の知的分析においてはつつしむべきなのである」
 
・ぼくのサイードにたいする違和感は、現実認識のズレからきているのではないかと思う。
 たとえばサイードは次のようにいう。

 「知識人が個人として主体的に代弁=表象をおこなえる空間、
  たとえば戦争の必要性を説く議論にむけて、また、たとえばヒモつきの契約と褒章によって
  賛同を得ようとする大がかりな社会プログラムなどにむけて、疑問をつきつけ、
  議論をふっかけるための空間は、劇的な縮小にみまわれた」

 日本の言論界を見回してみれば、反政府、反大企業、反権力の大安売りで、
 なぜかといえば、それが読むひとたちの気に入るからで、すなわち、商売になるからである。
 反戦、反核、その他もろもろがひとつの良心的ポーズであり、一種の迎合になるような状況で
 「戦争の必要性を説く議論」が大手を振ってまかり通るはずはない。
 たとえば、戦争の必要性を説く、権力側の知識人の名を、ぼくらは一体いくつ知っているだろう?
 サイードや、サイードが高く評価するチョムスキーなどの方が圧倒的に知名度、影響力があるのではないのか?
 かれらの方が、よっぽど権威と聖職者の威光を身にまとっているのではないのか?
 このような状況で、サイードのいう「周辺的存在」でありつづけるということは、一体何を意味するだろう?


「金縛りとは何か」

・そうです、金縛り。KA・NA・SHI・BA・RI。ぼくは、だいたい月一のペースで、金縛りにあうんです。
 といっても、ぼくがなにかマゾヒスティックな性戯にハマっていて、実際に金鎖で痴縛されている、
 そういうことではもちろんなくて、夜、ベットでふと目が覚めたとき、なぜか身体が動かない、
 そう、あの金縛りのことなんです――

・これだけ金縛りをこなしていると、ある程度冷静に分析することができる。
 ぼくが自分の経験に照らし合わせて、ひとつ確信して言えるのは、そこには霊的な意味合いは一切ない、ということだ。
 おそらく、頭は起きていても身体は寝ている、その心身のズレが金縛りという状況を生むのだろう、
 ぼくはそう解釈している。なので、金縛りの最中にも恐怖心は一切起こらない。

・ただ、考えてみると、金縛りにあっているときは、身体が動かない、というだけではなく、
 何ものかに強く押さえつけられているかのように、身体は非常に痛い。あれは何故だろう?
 また、異様なノイズが聞こえてくる。あれはどう形容したらいいのだろうか、
 Xenakisでもない、Merzbowでもない、shoegazerの類はもちろん違う。
 Electric Eelsのレコードを、プレイヤーごとアース線を繋げていない洗濯機のなかにぶち込んだような感じ、
 といえば、ある程度想像してもらうことができるだろうか?
 しかし、あれも不思議な現象で、一時は、耳の中を流れる血の音が顕在化したものではないかと考えたが、
 普段から血はあんなに烈しく流れるものなのだろうか? だとしたら、瀑布なみの勢いである。

・いまは不可能だが、子供の頃は金縛りになるのをコントロールすることができた。
 目を閉じて、ある一情景をエンドレスリピートさせることによって、ほぼ100%の確率で金縛りにあえたのである。
 面倒だからいまその情景を詳述する気はないが、
 おそらく「エンドレスリピート」の方が重要で、そこに何が描かれているかは特に関係のない気もする。
 「サージェント・ペパーズ・インナー・グルーヴ」は、金縛りにはうってつけのBGMだろう。

……………………・・・・・・・・・・
「追記」

上の投稿に関して、↓のように非難されている。

   21 名前: 名前はいらない 投稿日: 2007/09/24(月) 06:49:51 ID:XaOFvT1c
   ボルカの「仕切り直し」投稿散文も見ていて哀れを催したけど、
   「んなーこたったない」のあの低能丸出しの散文、どうにかならないか?www
   ありゃあまさしく思想的フリーク(変態)の思考の産物だぜ。

   とくに『エドワード・W・サイードと金縛り』ありゃなんだ。
   あまりにも散文コーナーを萎えさせないか。
   ボルカともども散文コーナーを低能の集積場にする気か?
   あんなものにポイントをいれた田代とか、少しはましなモノの見方ができるかと
   ひそかに眺めていたが、たんなる思想的フリークじゃねえか。w
   戦争翼賛思想だけでなく、日本語もめちゃくちゃ。
   >ぼくのサイードにたいする違和感は、現実認識のズレからきているのではないかと思う。
   ↑
   これ?「ぼく」に認識のズレがあるために、サイードに違和感を抱いている、のか、
   それとも?サイードの「現実認識のズレ」にぼくが違和感を抱いているのかわからない。
   ふつうに読めば文法手的には?だが、文脈からするとたぶん?なんだろ。
   それならサイードの「現実認識のズレ」を簡潔に指摘しなきゃ。なにひとつ具体的に
   分析することも、説明することもなく、個人的な妄想と断定だけで成り立つような
   自慰のような散文を平気で投稿し、それにポイントを入れる阿呆。
   どこまで現代詩フォーラムは萎えていくのだ?

また、ぼくの投稿を「殺人愛好思想とでもいうべきカルトな妄念」と書いたひともいる。
これらを一読したときのぼくの反応は憮然たるもので、
ずいぶん幼稚な人間もいるものだ、というのがぼくの偽らざる正直な感想であった。
しかしその反面、自分の投稿を読んだひとが確かに存在する、という事実は、
たとえどういう感想を持たれようとも、それだけで充分感激的なものである。

まず、ぼくの日本語について、?と?のどちらを意味しているのか分からない、と書かれてあるが、
あえていえば、そのどちらをも意味していた、ということになるであろうか。
つまり、?「(両者の)現実認識のズレからきているのではないか」が意図したものに一番近い。
そして、その「現実認識のズレ」について、ぼくは具体的にサイードの文章を引用し、
かつそれを日本の状況と対比させることで、いくらかなりとも説明を果たしたつもりである。
「つもり」というのは、あくまで自分で自分の書いた文章を読むからそう思うだけの話であって、
それが他のひとにどう読まれるかは、最終的に書き手と読み手、相互の歩み寄り如何である。

一口に「現実」といっても、いくつもの対立や矛盾を孕んでいる。
サイードの議論は、たとえば、レーガン以降保守化を強めているといわれる
アメリカでは有効なものかもしれないが、
その「現実」を、そのまま日本の「現実」にあてはめて考えてみると、
ぼくは大いに疑問を感じざるをえない。ぼくが言いたかったのはそういうことである。
知識人たるべきもの「周辺的存在」でなければならぬ、とサイードは主張するが、
こっちでは「周辺」でも、あっちでは「中心」ということも充分ありうる。

Wikipediaによると、サイードは「同い年の大江健三郎の文学を高く評価しており、良い友人であった」という。
反戦、反核論者として名高い大江は、まずなにより現行の日本人作家のなかで
もっとも権威と褒章を得た人物であることに、誰しも異論はないはずだ。
(大江の政治性を評価するひとは少ないかもしれない。が、大江の著作でもっとも読まれているのは
 「ヒロシマ・ノート」であるという記述を、ぼくはどこかで目にした記憶がある)
この辺からも「ズレ」の一端を窺い知ることができる。

ぼく個人は好戦主義者でもないし、反戦主義者でもない。
実のところ、なにか特別な大義を持っているわけではなく、
あえて言えば「気分的な厭戦」とでもいったものにすぎない。
だからといって、ことさらにそれをアピールしたことも、する気も、さらさらない。
しかし、反戦ムードに疑義を呈しただけで「戦争翼賛思想」というのはいささか大げさで、
「殺人愛好思想」とまでくると、もはやパラノイアの兆候で、そうなってはとてもぼくの手に負えない。
専門医の判断を仰ぐのがベターだろう。
以前、死刑肯定派を十把一絡げに「猟奇趣味の潜在的ネクロフィリア」と痛罵している文章を目にして、
大いにウンザリさせられたことがあるが、この「名前はいらない」氏も、おそらくはその手合いなのであろう。

どうも「名前はいらない」氏は、「戦争翼賛思想」というレッテルを貼ることで、
ぼくの投稿を一蹴しようと目論んでいるようだが、
それが通用するのは、「反戦」が正統思想としての権威を持って、広くに認められているかぎりにおいてである。
少なくとも「名前はいらない」氏の頭の中ではそう期待されているようだ。
となれば、「名前はいらない」氏にしたって、おのれの魂胆と
「戦争の必要性を説く議論にむけて〜議論をふっかけるための空間は、劇的な縮小にみまわれた」という
サイードの分析を比べてみるとき、そこになにがしかの「ズレ」を感じるはずである。
なにより、「名前はいらない」氏のこういう安直な批判態度こそ、
サイード自ら、知識人として烈しく敵視していたものではないのだろうか。

思えば「日本の言論界」などと、ぼくもずいぶん大雑把なことを書いたが、
奇しくも「名前はいらない」氏の「個人的な妄想と断定」によって、
ぼくの抱いた違和感が「個人的な妄想と断定」ではなかったことを、いくらかなりとも証明できたのではないかと思う。

あと、「こういう幼稚で低脳丸出しの文は、『んなーこったない』に決定だろな」云々という
見当はずれな憶測をたてているひともあるが、なぜかれがそう思い至ったのか、
ぼくに分かるはずはなく、これについては何とも言うことができない。
せいぜい「株式投資に手を出したりしないように」とアドヴァイスしてあげられるくらいである。
しかしながら、この手の「推測」も匿名ならではの醍醐味なのだろう。
ぼくも、こういう書き込みをするのは一体どういうひとなのだろうか、と、自然と興味が沸いてくる。
「こういう幼稚で低脳丸出しの文は、『んなーこったない』に決定だろな」……
おそらくは明晰な頭脳を持った人格者なのだろう、はからずも文面からそれらが滲みだしている。

あとは、無残にもノックアウトされたファイターたちの、退場してゆくその後姿を、黙って見送るだけである。


散文(批評随筆小説等) エドワード・W・サイードと金縛りと追記 Copyright んなこたーない 2007-09-20 11:37:40
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