母の上空
佐藤清児
何処までも続く田んぼ道を
傘を差しながら歩いていた
泥濘に足を捕られ
踏み込んだ足音に
ため息が一つ、呼応する
辺りはすっかり暗くなった
バスの停留所が見えるまで
ひたすら途方も無い一本道を歩き続けた
停留所の頼りない灯りと共に母の影が見えた時
漠然と覆っていた一抹の不安が一掃され
いつの間にか笑顔で走り出していた
三年ぶりに、帰ってきてくれたのだ
*
母は雨女だという
昔、父が教えてくれた
雨女は妖怪だいう
父は酒を飲みながら少し笑った
そんなことは絶対に信じなかったが
本当は少しだけ怖くなってしまった
家から居なくなってしまった筈の母が
時々、台所に立っているように思えて
母の名を呼んでしまうことがあった
そんな時は必ず雨が降っていた
母は妖怪雨女なのかもしれない
そう思ってしまう時は
少しだけ悲しくなった
*
てるてる坊主を窓に掛け
あめゝふれゝかあさんが
蛇の目でお迎え嬉しいな…
小学校1年の時に習った歌を小声で口ずさみながら
明日、母が帰ってくるという突然の知らせを
弾けそうな小さな胸の内側で
ぎゅっとかみ殺していた
その日は止みそうもない大雨で
夜になっても風が弱まることが無く
結局一睡も出来なかった
その日の朝、母がいつ帰ってくるのかを聞くと父は
「今日の夕方6時に、バス停まで迎えに行ってやれ」
とだけ言って会社に行ってしまった
*
バス停までは大体20分くらい歩かなければならない
家を出る時には小ぶりだった雨が次第に強まってきた
途端に、母は本当に家に帰ってきてくれるのだろうか
という想いが心の底で水溜りのように広がっていった
あめゝふれゝかあさんが…
口ずさんですぐに止めた
てるてる坊主は何の意味も無かった
母が待っていないような気がしたのかもしれない
小学校の高学年にもなって童謡を歌うのも
なんだか恥ずかしい気がした
ただ黙って
果てしなく思える一本道を
ひたすら急いだ
母の影が見えた
*
帰り道はずっと笑顔で
僕を迎えてくれた母と
これからずっと笑顔で
暮らしていけるのだと
勝手に思い込んでいた
ザアザア降り雨のなか
てるてる坊主は一度も
願いを聞いてくれない
*
*
*
母にはもう一つ
帰るところがあるのだという
夜遅くに、父が教えてくれた
それは何処なのかと聞いても
父は絶対に教えてくれなかった
お酒を飲みながら黙りこくって
窓から見える夜の空を見上げていた
2日だけ泊まって母は帰っていった
帰る日はとても晴れた朝だった
母に、「何処へ帰るの」
とだけ聞くと母は泣いた
大きな声で大きな涙を流した
外はこんなに晴れているのに
僕は泣かなかった
母はやはり、妖怪雨女だったのだ
妖怪雨女の国へと帰っていくのだ
母は何処までも続く田んぼの一本道を
傘を差しながら帰っていった
母の上空にはいつも傘がある
外はこんなに晴れているのに