母の上空
佐藤清児

何処までも続く田んぼ道を
傘を差しながら歩いていた
泥濘に足を捕られ
踏み込んだ足音に
ため息が一つ、呼応する
辺りはすっかり暗くなった

バスの停留所が見えるまで
ひたすら途方も無い一本道を歩き続けた
停留所の頼りない灯りと共に母の影が見えた時
漠然と覆っていた一抹の不安が一掃され
いつの間にか笑顔で走り出していた
三年ぶりに、帰ってきてくれたのだ



母は雨女だという
昔、父が教えてくれた
雨女は妖怪だいう
父は酒を飲みながら少し笑った
そんなことは絶対に信じなかったが
本当は少しだけ怖くなってしまった
家から居なくなってしまった筈の母が
時々、台所に立っているように思えて
母の名を呼んでしまうことがあった
そんな時は必ず雨が降っていた
母は妖怪雨女なのかもしれない
そう思ってしまう時は
少しだけ悲しくなった



てるてる坊主を窓に掛け
あめゝふれゝかあさんが
蛇の目でお迎え嬉しいな…
小学校1年の時に習った歌を小声で口ずさみながら
明日、母が帰ってくるという突然の知らせを
弾けそうな小さな胸の内側で
ぎゅっとかみ殺していた
その日は止みそうもない大雨で
夜になっても風が弱まることが無く
結局一睡も出来なかった

その日の朝、母がいつ帰ってくるのかを聞くと父は
「今日の夕方6時に、バス停まで迎えに行ってやれ」
とだけ言って会社に行ってしまった



バス停までは大体20分くらい歩かなければならない
家を出る時には小ぶりだった雨が次第に強まってきた
途端に、母は本当に家に帰ってきてくれるのだろうか
という想いが心の底で水溜りのように広がっていった

あめゝふれゝかあさんが…

口ずさんですぐに止めた
てるてる坊主は何の意味も無かった
母が待っていないような気がしたのかもしれない
小学校の高学年にもなって童謡を歌うのも
なんだか恥ずかしい気がした
ただ黙って
果てしなく思える一本道を
ひたすら急いだ
母の影が見えた



帰り道はずっと笑顔で
僕を迎えてくれた母と
これからずっと笑顔で
暮らしていけるのだと
勝手に思い込んでいた
ザアザア降り雨のなか
てるてる坊主は一度も
願いを聞いてくれない





母にはもう一つ
帰るところがあるのだという
夜遅くに、父が教えてくれた
それは何処なのかと聞いても
父は絶対に教えてくれなかった
お酒を飲みながら黙りこくって
窓から見える夜の空を見上げていた
2日だけ泊まって母は帰っていった

帰る日はとても晴れた朝だった
母に、「何処へ帰るの」
とだけ聞くと母は泣いた
大きな声で大きな涙を流した
外はこんなに晴れているのに

僕は泣かなかった
母はやはり、妖怪雨女だったのだ
妖怪雨女の国へと帰っていくのだ

母は何処までも続く田んぼの一本道を
傘を差しながら帰っていった
母の上空にはいつも傘がある
外はこんなに晴れているのに



自由詩 母の上空 Copyright 佐藤清児 2007-09-16 09:06:43
notebook Home 戻る