雲。
もののあはれ

朝が来たので洗面台で顔を洗っていたら
排水溝の中から声がしたので
どうしたのですかと尋ねると
流されるままに生きていたら
ここにたどり着いていましたと返事があった
申し訳ないですが僕は時間が無いので
助ける事が出来ませんと告げると
はい分かっています
私もあなたの場所にいた頃は
そういった余裕は一切ありませんでしたので
あなたの気持ちを痛くお察ししますと返事があった
僕は手を滑らせた振りをして
聞こえてくる声を排水溝の奥へ流してしまうと
とにかく大変そうな顔をして先を急いだ

アパートのドアを開き駆け足で通りへ出ると
電柱の脇のゴミ置き場から声がしたので
どうしたのですかと尋ねると
いらないものを全て捨てていたら
最後にいらなくなったものは自分でしたと返事があった
出来ればあなたと一緒に失くしたものを探したいのですが
今日はどうしても時間が無いので
明日にして下さいと告げると
はい分かっています
私もあなたと同じ時を過ごした事があるので
あなたの気持ちは当然であると認識していますと返事があった
僕は捨ててきた心の置き場所を思い出せない振りをして
聞こえてくる声をゴミ置き場の奥へ押し込むと
致し方無さそうな顔をして先を急いだ

駅へ向かう道の途中
地面から声がしたので
どうしたのですかと尋ねると
土の中で7年間必死に生きてきたのですが
いざ外へ出ようとしたら上からアスファルトを張られてしまったようで
どうやら日の目を見る事が出来なくなりましたと返事があった
僕に力があるのならこんなアスファルト剥がしてあげたいのですが
両手には僕を守るだけの力しかないので
どうしてあげることも出来ませんと告げると
はい分かっています
あなたも私も同じ境遇ですからどうぞ先を急いで下さいと返事があった
僕は夏空に響く蝉の声にみっともない臆病さを潜ませながら
試練でも背負い込んだ顔をして先を急いだ

僕は今日も僕にとって大切なものから簡単に目を逸らしてしまうくせに
それでも大切なものを探すことで精一杯の顔をして先を急いでいる
大切なものはいつもきっと過去でも未来でもなくここにあるというのに


でもそれでもいいんだと思うことにする
立ち止まって空を見上げてみれば
雲はどこまでも自由にゆるやかに
果てしなく流れゆくことをまだ忘れてはいないから






自由詩 雲。 Copyright もののあはれ 2007-08-09 19:25:53縦
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