松井浄蓮の垢を煎じて呑むべき人々へ
はらだまさる

長いのでお暇なときに読んで頂ければうれしいです




 reonさんの散文『フォーラムのポイント付与あるいは詩と批評についての考察』を読んで、「詩を描かない批評家がいない」ってのは、ホンマそうやなぁと思いました。これって根が深いですね。その反面、やっぱり詩人は批評家の一面ももってないと駄目ってことなのかもなぁとも思いました。
 だけど所謂「批評」ではなく、作家同士がポイントを与え合うというこの現代詩フォーラムのスタイルは、『ポイントとは力であり、正義だ』の中でフジシロさんもあくまでコミカルにおっしゃってますが、すごく政治的な感じがします。曖昧な表現やけどそう思う。ただ、このシステムが駄目とかいけないとか、ぼくはそんなことを云うつもりはないし、最低限のルールの中で自由に遊ばせてもらってるんやから片野さんに感謝こそすれ、文句や注文をつけるつもりは全くありません。ただ個人的に好きな人の作品が突然読めなくなるのは、ちょっと寂しいなぁと思うし、もうちっと別の解決方法があるんやないかとは思います。中には生理的に、または個人的にこのシステムが気に入らない人もいる訳やし、その逆も然るべきということなんやろうか。マクロとしては日本の『詩』という文化にとってここが良い空間であって欲しいし、それがミクロ(個人)に集約されることをぼくは望んでいます。
 兎にも角にもこれだけの人がこの場に集るということは、それは時代の要請以外の何ものでもないでしょう。ただ間違ったらアカンけど、ここが全てやないし、パソコンやケータイを使えへんけどすげえ作品を描いてるような人が、この世界のどこにいてもおかしくない訳で、そんな人の存在に希望に似た期待をぼくは常々持っています。
 今までも色んな人が色んな形で、このポイント制についての作品を発表しておられるので、意見として重なる部分もたくさんあったし、今更このタイミングで語るのも野暮やし、こっぱずかしいなぁとは思いますが、一応、reonさんの散文に対するコメント欄で「まとめたらUPします」と記した以上、有言実行しとかなきゃ気持ち悪いんで、今現在ぼくがこのポイント制について感じていることを描いてみようと思います。

 まず、最初にも描いたけど、このポイント制っていうのはものすごく政治的なシステムやなぁとは思っています。それについては、ぼくがここで具体的かつ簡単に説明するよりも、フジシロさんの『ポイントとは力であり、正義だ』を読んでいただいた方がわかり易いと思います。
 実際、このポイントだけで詩の良し悪しは計れないと思うし、ポイントの少ない作品でも、いい詩(ま、誰にそんな評価が出来るのかは疑問で、この定義も酷く曖昧なもんですけど、一応ここでは個人個人の評価として質の良い文芸作品)と云われるものがあるのは事実やと思てます。作品の読まれ方なんて十人十色で、技術的に下手でも人のこころに喰らいつくような作品もあるし、その作品が読まれる時間的な背景や、この場ならではのライヴ性(場の空気を掌握する力)とか考慮して、読み手の精神状態とか、普段ならポイントする作品やったとしても、いまは気に入らないと感じるからポイントなし、とか個人的にこの人のスタイルは嫌いとか、ポイント制にアンチな姿勢が素敵!とかいうこともあり得るので、このポイント制が正確な判断やないのは、誰にでもわかることでしょう。もし自分の与えたポイントに絶対の自信と揺るぎ無いポリシーを持って「十年後も意見は変わらない!」と云える人がいたら、ぼくはその人を信用しません。

 ただ、色んなところで語られてるポイント至上主義な人(俺がそうやと思ってる人も中にはおられるんでしょうなぁ)もここにはいるんやろうけど、実際はそれ以前にたくさんの人に読んでもらいたい、という気持ちを持っている人が多いんやないかと思います。まさか「俺の作品は凄いからみんな読んでるだろう」とか思ってる人がいるとしたら、残念ながらそれはないということだけは知っておくべきやと思います。それに自分の作品の良さが理解出来る人にしか読まれなくてもいい、という作品を描いてるという人ばかりなら、なんと陰鬱で絶望的な世界だろうかと、ぼくのような人間は思ってしまいます。ただ、それがいけないことではないし、そんなスタイルの人が描いた作品からもすばらしいポエジーは匂いたつ、という事実も十分承知しているつもりです。
 誤解を怖れずに云えば、ぼくはポイントの量よりも、どれだけたくさんの人に読んでもらえるかをファースト・プライオリティにしています。無論、ポイントをもらえるのはすごくうれしいし、ポイントやコメントがあることで、創作の励みになるのは確かです。読んでいただけて、ポイントやコメントまでもらえるというのは、やはりすごくうれしいことやし、ありがたいことです。
 これは今まで色んなところで詩(のようなもの)を描いてきた人なら普通に感じることやと思いますが、詩を描かない人は詩をほとんど読まないし、例えばブログやミクシーの日記に詩をのっけて、友人知人が読んでくれていたとしても気の利いたコメントをもらえることなんて、ほとんどないんやないかと思われます。実際、それは辛いもんです。読まれてるのかさえ判断出来んかったり、はたまた読んでくれてたとしても何の反応もない、みたいな経験をしてる方も多いんやなかと思います。どんな芸術でも、それを観賞したいと思う人がいなけりゃ成り立つ訳がありません。鑑賞者のいない作品なんか描いてるのがアホらしい、みたいな。それでも已むに已まれずぼくらは作品を描き続けてる訳なんですが、それにしても虚し過ぎる。実際、自分が作品を描いてるときは面白くても、その面白さがわからん人に説明して「これオモロイやろ?」云うことほど寂しいもんはないでしょう。そんなこと死んでも出来んのです。ちなみにぼくは十年前に詩画集(500部完売)を出版して、去年、約十年ぶりに詩集を出版しまして、これが300部刷って半分くらい残ってますが、全然売れへんし、あんまり進んで売る気になれない、というのが本音です。まぁ、本を売るのは大変です。営業とかも悲惨です。まず、絶対的な読み手が少ない。でもこれぢゃいかんなぁと思う訳で、どさくさに紛れて宣伝させてもらいますが、この本を欲しい、とか詳しく知りたいと云って下さる方は私信でもいいので連絡下さい、1300円で96Pです。ここに居られる方は眼が肥えてらしゃるので読み応えがないでしょうし、詩集と云うには恥ずかしいうえに、いまここで描いてるような作品よりももっと稚拙で分かりやすい作品群ですが、これもぼくの一部なんで、良かったら義理でも優しさでも喜びますので(赤字なんで)買ってやってください。ちなみにぼくは詩で飯を喰うことが不可能やとは思ってません。ぼくは職業詩人になる気はないですが、その気になればなれるんやないかと思っています。どんな人でもプロになりたきゃ幾らでも可能性はあるはずです。後は方法論と、プライドやポリシーとかの問題だけです。
 そんなことはさて置き、ぼくはたくさんの人に読んでもらいたいのです。自分ではエエのん描けたと思ってても、そんなん思ってるのは自分だけやも知らん。どんだけ一生懸命作品を描いても、世間(身内以外の他人)がみたら便所の落書き、みたいなんやったら虚し過ぎるし、辛過ぎる。ゴッホはホンマに凄いけど、やっぱり彼のようにはなりたくないんです。
 現行のシステムではどれだけ他の方の作品を読んでても、表現は悪いが、足跡代わりにでもポイントを落とさへんかったら、特定数の親切な人以外はプラスα(数人程度)しか自分の作品はまず読んでもらわれへん気がしました。ま、実際は読んでもらえててもポイントに至らんだけの話やったんかも知れんけど、大抵の人は「自分が自分が」であって、他人の作品なんかちょんちょろりんのほーいほいといっても過言ではないでしょう。自分の作品さえ読んでもらえたら他人の作品なんか読む価値もない、みたいな。みんながそうなら、すごく寂しい空間にしかならへんし、「場」としての新陳代謝も悪いうえに、不健全さが際立って(一部の方を除いて)面白くもなんともないところになるんやないかと思います。
 この場は、基本的に、基本的に、三度基本的に自分の描いたものを誰かに読んで欲しい人が作品を発表し、またその人本人が出来る限りの範囲で他の作品を読み、また同じように読んでくれる人がいるからこそ、初めて成り立っているはずです。それがわからない人やわかってても出来ない人が多いことにぼくは吃驚させられています。このポイント制というシステムや「お気に入り」というネーミングに疑問があったとしても、この場で遊ばせてもらってる以上、よりよくする提案はあって然るべきやけど、文句を云うのはナンセンスやと思うのです。
 そやけど最初はこのシステムが何となく「そうやろなぁ」くらいに理解出来ても腑に落ちん感情がある訳で、「お気に入り」というネーミングの呪縛から開放されるためとは云え、ポイントをばら撒くようなやり方はすごく恥ずかしいし苦しい決断でありました。誰でも考えれば解かることやけど、他人の眼というのはどんな人でも最低限気になる訳で、そこを超えてしまわな本当に自分のやりたいことは出来ひんもんです。本来芸術家なんてものは、基本的に自分が生み出した作品が最高なんであって、他人の作品で評価出来るものなんて指折り数えるくらいのもんやろうと思います。自分の感性にそぐわない奴の作品なんかはっきりいって興味ないねん、ってのが姿勢として正しい。でも、そんな姿勢を馬鹿みたいにカッコつけて貫いてちゃ、ぼくの場合は作品を描いている本来の目的を置き去りにしてしまうようなことになることに気がついた。まぁ、この辺は人それぞれ色んな考え方があるんやろうけど、ぼくの場合は、まず読んでもらえなくちゃ描いてる意味がなくなってしまうと思ったんです。
 一体何のための言葉やろう?と。ぼくと云う人間を伝えるためや。存在の証明や。自己探求や。自己確立や。君=世界との差異や。君=世界との断絶や。君=世界との融合や。その痛みや。ぼくの感じた世界を、断絶した君=世界に一生懸命届けるための努力や。それ以上でも、以下でもない。そのための言葉であり、行動や。
 ぼくは待ってられへんかった。恥を凌いで、今年に入ってからはポイントをあげまくるようにした。その代わり失礼のないようにどんな作品に対しても丁寧に集中して読んだし、時間の許す限り、読めるだけたくさん読むように心がけた。自分の作品を読んでもらいたいなら、他の方々の作品を丁寧に読むのが礼儀やと思いました。そしたら、失礼ながらそれまで自分が流し読んでたものの中にも思ってた以上にすばらしい作品があったし、色んな意味でお手上げやなぁと思う作者にもたくさん出会えた。そこで気に入った作品には時間が許す限り出来るだけコメントを付けるようにし、ぼくの感性と経験で、作品としては未熟に感じても、作者の熱意がストレートに伝わるものや、きらりと光るセンスがあれば、今後の期待を込めてポイントすることもしばしばあった。そうしてるうちに、徐々に読んでもらえてるんやなぁと感じれるくらいのポイントをいただけるようになり、この空間で作品を発表するのが、それなりにようやく楽しくなってきた。
 コメントやポイントは自分の宣伝にもなるけど、それ以上に自分の詩に対する姿勢やセンスを問われるもんやから何でもかんでもポイントする訳にはいかんし、自分なりのボーダー(といってもその日の精神状態や単に好きや嫌いも大きく左右するけど)を決めてポイントするようにした。気に入った人で調子が良ければ突然何の前触れもなしに過去作から一気に読んだりして、中にはビックリさせてしまった方もいたと思うので、申し訳ないことをしたなぁと思っている。兎に角時間があれば読んで、読んで、読みまくってポイントし、コメントした。それはいまでも続けている。
 その分、全く面識や関わりのなかった人達に読んでもらえる機会は確実に増えたし、ポイントをもらえる確率も高くなったのはいうまでもないでしょう。確かにこれってある側面からみたら作家としてすごく恥ずかしいことかも知れません。そやけど、詩(のようなもの)を描いてる時点で詩を描かへん人と比べたらもの凄い恥ずかしいことしてると思う訳で、表現とかアートみたいなもんは、本来恥ずかしいもんやとぼくは思ってます。そこに恥じらいがないことの方が、恥ずかしい。「俺は詩人なんだぜ!」ってことの方が、ぼくは恥ずかしいと思います。でも恥ずかしがってちゃ何にも出来ない訳だから、自分で自分の望むカタチを手に入れるためには、自分をコントロールするしかないと思う。
 これも佐々さんが『ポイントは数字か?』で描いておられたことの繰り返しになっちゃいますが、ポイントをもらう側も、この人はよくポイントをくれるなぁ、とかこの人はポイントをあまりくれないとか、それぞれの人がそれぞれのスタイルで、ポイントを扱っておられるので、ポイントすると名前が表示されるこのシステムの場合、客観的に誰にでもわかるという点においてポイントの質も、ある程度やけどわかるシステムにはなっていると思います。更には一条さんが『失われるポイント』で面白い散文を描かれてるので参考にして頂けると良いですが、すごく経済と似た動きをするから、お歳暮や義理チョコとおんなじで、義理ポイントとか本命ポイント(というのも作品に対してではなく、その人物にポイントする)とかも普通に起こりえて当たり前であって、それが気に喰わないからといって、この場でそれに異を唱えるのもナンセンスやと思うし、そんなことにいちいち対応してたらこの空間の自由度が薄まって居心地が悪いと感じる人が増えるんやないかなぁと思います。個人的に気に入ってもらいたい人の作品に対しては、やっぱり自分に都合のいい風に読もうとする人もいるだろうし、「正確な理解」なんてあり得へんのやから「好意的な誤解」が当たり前で、それってすばらしいことやとぼくは思っています。
 それと、ポイントゲッターの一人として自分のやってきたことを少なからず恥じ、そやけど自分の生き方に恥じないために、トップテン常連の作者を擁護しながら自己正当化して今夜はぐっすり眠りたいから描きますが、常にポイントをもらえるだけの作品を量産するには、それなりの技術や力量、人間としての魅力なんかが必要にはなってくる訳で、そうやって固定ファンがつくってのは、読み手にとっても書き手にとっても基本的にはプラスに働くんやから、それはそれですばらしいことやと思っています。しかし、同じようにポイントが少なくてもすばらしい作品を生み出す人はいる訳やし、この現代詩フォーラムの場においても有名、無名の差はないでしょう。掘り出し物をみつける楽しみかてあるんやから、文句をいうのは贅沢な気がします。それぞれの人が、それぞれのやり方で、感性やポリシーに従って個性を発揮していればいいんやないでしょうか。このシステムにしてみても色んな人の色んな考え方やスタイルがあって、それをそれぞれがそれぞれの考え方で作品化するから面白いんであって、みんながみんな同じはずがないし、その差異を確認して楽しむのがこういった散文の醍醐味でもある訳です。

 昨日、関西ローカルで某ハカセ・タロー氏が言ってたけど、モーツァルトだって当時一番人気だった訳じゃなくって、モーツァルト以上に人気のあった作曲家は山ほどいたらしくて、三百年たった今でも淘汰されずに語り継がれてるのはモーツァルトなんだよね、すごいなぁって話がしたい訳です。詩なんてものは千差万別色んなものがあっていいもんだとぼくは思うし、それがある人にとっては詩であっても、詩ぢゃないとしても、悲しいかなその判断は最終的に時代の感性に委ねられるものでしかない。それが多くの人によって長く語り継がれようが、消費文化の産物として時代の趨勢とともに消えてしまおうが、それはその作家の作品の質、また姿勢や生き様、そしてその後の世界の状況によるもんやろうから、そんなに力まず、無理せずにそれぞれがそれぞれのスタイルで作品を生み出してゆけばいいんやないのかと思います。
 それでもこれだけ、ポイント制について悩む人がいるというのは、やっぱり日本人は数字に弱い、と云わざるを得ないんでしょうね。後、知識人の言動にも弱い。上質なものをたくさん知ってたとしても「俺はすげえ批評眼を持ってる」とか大見得が切れる奴ほど、信じるに値しないとぼくは思っているし、勉強熱心で知識(というか独創性のない単なる偉人の思想の受け売りの記憶)のひけらかしの上手なごく一部の批評家風味や、専門で活躍する研究家の批評眼であっても、恣意性や個人的な好悪によってその眼が鋭くても濁ってるのが世の常やから(学問として着眼点や文芸の面白さは学ぶべきことが多いんやけど)胡散臭過ぎてそのまま鵜呑みに出来んことくらいみんな暗黙のうちに解ってなきゃあいけない訳で、そういう人に限ってしたり顔で偉そうに自分の世界だけで胡坐をかいてる。そんな人をみると応用の利かない単なる世間知らずぢゃねぇか、とぼくなんかは思ってしまうのであります。
 と、まぁ優しい毒を吐くのはこれくらいにして、ここに集ってくる人達はそんなアホばっかりやないでしょう、普通に皆さんすごい人達やと、ぼくは感じています。
 独断と偏見ではありますが、詩(のようなもの)を描く人ってのは基本的に社交的な人が少ないようやけど、そういう人だからこそ素敵な詩が描けたりするからこの世界は面白い訳で。これは完全に蛇足になりますが、一部の人にはどうやらぼくは社交的な奴にみられてるようで、ちょっと納得がいきません。何故ならぼくは基本的には人との会話が苦手で、言葉に対して必要以上にコンプレックスを感じて生きてきた人間であります。小さい頃から何かうれしいことや嫌なことなどを感じても、反応としてのイメージは、はっきりと頭の中に思い描けるけど、それを例えば母親や父親、または先生などに対してどう伝えていいのかが、ずっとわからないから黙って泣いてしまうような少年でした。どう言葉にしていいのかわからんかったんでしょうね。イメージを言葉に出来ひんことに、ずっと苦しんで生きてきたように思います。ぼくがどれだけ伝えたつもりであっても、相手の反応をみたら、あんまり伝わってないのが解るもんです。やっぱり誤解されてるって感じるのは、いいもんやないですもんね。十代、二十代の頃はそのことで随分苦労したし、すごく苦しかった。自分の気持ちなんて伝わらなくていいや、伝わるわけがないと投げやりになったりして周囲の人達を悲しませて困らせていましたが、ようやくこの歳になって何かがふっきれたようです。人と話すのが苦手や、って言うのは簡単やけど甘えでしかないんでそれを克服するためにも言葉を学ぶのはぼくの必然でありました。

 兎にも角にも、そういったことを全部ひっくるめて、ぼくはこの現代詩フォーラムで詩作し、それを読んでもらい、また自分も出来るだけたくさんの人の作品に触れ、僅かな共感と絶望的な差異を感じながら自分を知り、人生において如何にいまを、この瞬間を有意義なものにするかが、最も大事なことやないかと考えています。

 ここにはポイントはあるけれど、経済はない。それは現代に生きるぼくらにとって、とても価値のあることやと思います。


 今日は少し肌寒い中、田植えを体験してきた。そのときに有機の自然農法なんかで衣食住全てを自給自足でやっておられる農の世界ではかなり有名な『麦の家』の先生のお話を聞かせてもらって来たのですが、突き詰めて考えれば、農作物が経済にリンクするのは根本的におかしいそうです。農作物も人間と同じ命の営みであって、その命を頂いてぼくらは生きている訳ですが、その命の営みを工業製品と同じように貨幣と交換するというのは間違いであるそうです。自然そのものであり、ぼくら人間と同じ命そのものである農作物を貨幣と交換するなんてのは、本来むちゃくちゃな話であると。そんなことしてるから人間がおかしくなるんですって。農の世界のことはまだまだ勉強中でぼくにはわからへんし、うまく皆に伝えられへんけど、その話を聞いて、すごく納得していました。それと同時に詩も同じなんやないかと思って先生の話を聞いている自分がいました。
 詩は生命ではないけれど、貨幣と交換するようなもんではないのかも知れない。しかしながらこの資本主義社会に生きている以上、今現在は結局のところそれも単なる理念であり理想論に過ぎひん訳で、例えば作品を一冊の本にするだけで、または作品を朗読するだけで、紙代やら製本代やら、朗読するなら場所代とか光熱費や必要経費なんてものが発生する以上、詩も農作物同様、資本主義に組み込まれてしまってる訳です。すでに本を作って、ここで宣伝までしちゃってるので説得力がないように感じられる人も中にはいると思いますが、逆に言葉を本にして、少なくともそれによってお金を頂いているからこそ実感として、このことを伝えられるんやないかとも思います。

 最後にもう一度、繰り返します。
「ここにはポイントはあるけれど、経済はない。」

 長いのに最後まで読んで下さってありがとうございます。
 ポイントはいらないんで記念にでもぼくの本を買ってやって下さい(結構切実です)苦笑。今年の十月までに後150冊さばかなきゃ廃版になるので、よろしくお願い申し上げます。敬具


追、誤字脱字やおかしい文章があれば教えていただけるとうれしいです。取り敢えず伝えたいことが伝わればいいなぁと思っています。
そして本文中、参考として作品の紹介をさせて頂いた皆様の作品がなければ纏め上げられませんでした。心よりお礼申し上げます。






散文(批評随筆小説等) 松井浄蓮の垢を煎じて呑むべき人々へ Copyright はらだまさる 2007-05-20 02:54:56
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