湖畔の洋館
はじめ
霧の湖の畔に見える建物 あそこまで歩くのにはかなり遠い この丘には休憩所がある あそこには洋館風のホテルが立っている この建物の展望台に備え付けられた無料の双眼鏡で見ることができる
僕はなだらかな丘を下って 再び森の中に入って行く 濃密な霧が初夏の葉の色付いた森を完全に浸らせている 吐く息が白くなり 服の内側が湿っぽくなってくる 僕以外にあの洋館のホテルに行く者はいない 僕はホテルのオーナーに話があってここに来たのだ 君の父親であるオーナーに 君をもらう為に
道脇にあった小岩に腰掛けて休憩をする 霧がかかっているとはいえ 森の中の空気はおいしい 茶と白の大小の野兎2匹が反対側の道の脇にいて 草をもくもぐと小さな口元を動かして食べていた 親子でここまでやって来たのだ 僕が草を千切って野兎達に投げてやると 野兎の親子はそれをもぐもぐと食べて 茂みの近くまで走っていき 一度此方に振り向いて 中へ入っていった 不思議な余韻がこの場に残っていた 僕はしばらくその感触を味わっていた 森では吸ってはいけないと分かりつつも煙草を吸った 霧と煙が肺の中へ勢いよく雪崩れ込んできて そしてゆっくりと顔を上げて吐いた ちゃんと携帯用の煙草の吸い殻入れに煙草を入れ 火を消してから立ち上がった 時刻は既に夕刻へ差し掛かっていた 僕は少し急ぎ足で歩き 時折幻想的で神秘的な色合いを見せる冷え冷えとした夕霧とそれに溶ける夕闇の中へ身を捻り込ませて行った
この森の木々の名前を一本一本言い当てられる人間など僕は知らない それぐらい多種多様な木々や草花が生い茂っていた 乳白色の霧は目立たなくなり正真正銘の闇がこの森を包んでいた 僕は鞄からランプを取り出して右手で持って手探り状態で歩いていた ちゃんとした道はあるのだが 少しでも中心から逸れてしまうとボッティチェッリの『春』の右側の精霊のように闇に連れ去られてしまいそうだったので 慎重に歩いていた やがて道が開けて 幻想的な霧の湖畔に浮かぶ洋館が灯の光を灯して見えた 僕はその光景に思わず「おっ!」と唸った
洋館の灯が湖に映って空を映した真っ黒な水面が静かに波立っていた 僕はその景色をじっくりと眺めながら湖畔の人工道をゆっくりと回って洋館に着いた 威圧的な雰囲気が漂う洋館は夜の空を背に聳え立っていた 僕は巨大な分厚い木の扉をノックした するとメイド服姿の君が扉を開けて出てきた 扉が閉まって僕と君は抱き締め合った それは短い時間であったが永遠と呼べるものであった やがて扉を開けてホテルのオーナーが出てきて 「熱くなるのもそこまでにしてくれないか。私の娘は君には渡さん。君みたいな風来坊な詩人に、安定した生活が築けるわけがないだろう? それとも君は世を取り戻して落ち着き、私の娘を幸せにしてくれるのかね?」
「詩人は止めません。しかし、各地を放浪するのは止めます。安定した生活は望めるかどうか分かりませんが、貴方の娘さんと共に、苦しい境遇を乗り越えて、幸せな家庭を築くつもりです。…どうかお父さん、娘さんを僕に下さい!!」
「…よかろう。そこまで覚悟を決めているとは知らなかった。娘を、大切にしてくれ。私の、誇りなんだ。頼むよ」
僕は君と抱き合った そして僕達はこの洋館で働きながら幸せに暮らしている