美人は誰か
んなこたーない
仕事場で仕事をサボって同僚の女の子と恋バナに花を咲かせていたら、こう結論づけられた。
「結局は顔だよね」
確かに顔の良し悪しは大事だが、けして最重要というわけではないだろう。
そうは思ったが口に出すのは止めておいた。カサノヴァよ、さらば。
ぼくは美しいものを愛する。同時に美しいとされるものには賛嘆を惜しまない。
美は社会生活の反映であり、また時代の証言でもあるからだ。
それでは、次のボードレールの主張はどう考えたらいいのだろうか。
「誰にでもたやすく分かることだが、もしも美を表現することをまかされた
人間たちが教授・審査員諸氏のルールに従うならば、美それ自身が地上から消えてしまうだろう。
あらゆる観念、あらゆる感覚が、単調で没個性的な、倦怠や虚無のように果てしもない、
ひとつの巨大な統一体のなかで交じり合ってしまうだろうだからである」
これは一面的には真実であろう。
つい数ヶ月前の話だが、現代詩手帖が「現代詩人賞特集」を組んでいて、
普段は手に取らないぼくも資料的な価値の意味もこめて買って読んでみたら、そのあまりの読み応えのなさに愕然とした。
それもそのはずで、賞と名のつくものはどれもこれもイカガワしくアテにはならない。
教授・審査員諸氏と世間一般との径庭は由々しき問題である。
しかし病的に青白く物憂い幻想美を称揚するボードレールの腹の内には、
当時のブルジョア階級の健康的な美意識への反発が潜んでいるのもまた事実である。
美へのアプローチには、自分の社会階層を示す、あるいは仲間内の印を誇示するといった
政治的・経済的・社会的な意味合いが含まれている。
大まかに考えれば、二つの道筋がある。
ひとつは美の理想的範例を想定し、それに従属すべきというものである。
もうひとつはルソー流にありのままの自然をすなわち美とするものである。
ここには生活態度の相違があらわれる。つまり道徳的・宗教的な要素が絡んでくるのである。
「おしゃれに気を使う女性は、神より悪魔に似ることを選んだ者たちである。
なぜならキリストはひとつの顔しかないが、竜には七つの顔があるからである」(引用元不明)
ちなみに七つとは、昼用、夜用、祭用、宗教儀式用、家用、外出用、よそ者向け用とのことだそうだ。
古くから今日に至るまで、化粧が娼婦や男色家と結びつけられるのも理由のないことではない。
無為で偽善的な生活に、官能の昂揚をもたらすのは虚飾とまやかししかないのである。
また美容整形がゴシップの種になることもあわせて考慮したい。
ここにはいまひとつ外面的か内面的かという選択があり、両者を結びつけるという選択もある。
しかしありのままの自然と言ったところで、それがいま現在どの程度貫徹出来るかは疑わしいものがある。
ナチュラルメイクのような人為的な自然らしさがあまりに幅を利かせているからだ。
医療技術まで含めば、誰もかれもみな多かれ少なかれサイボーグ化しているのが現状なのではないだろうか。
美の決定権は誰にあるのかという問いもある。
これは「美は社会生活の反映であり、また時代の証言でもある」以上、
限定された時代の限定された社会とでもしか答えようがないだろう。
美意識は自己に反省を促す力がある。反省とは自分自身を客観視することである。
自分のなかに他者を見つけ出すこと。――この他者は間違いなくぼくらを裏切りつづけることだろう――
結局、内なる他者を許容する態度が実在する他者への許容にも繋がるのではないだろうか。
理想的な女性像の一例として、プルーストの次の一節はぼくには意味深長に思われる。
「頭の位置を動かすたびに、彼女は新しい女、それもしばしば私の思いもかけなかったような女を作り出した。
私には、自分がただひとりの娘ではなく、無数の若い娘を所有しているように思われた」
ひとりの娘に無数の若い娘を見出すとき、この「私」は同時に無数の「私」をも見出すだろう。
ぼくは美しいものを愛する。
nousよ、さらば。ベアトリーチェよ、こんにちは。