老婆の休日
服部 剛
桜舞い散る春の日
正午の改札で
杖を手にした祖母は
ぼくを待っていた
腕を一本差し出した
ぼくを支えに
大船駅の階段を下り
ホームに入って来て停車した
東海道線の開いたドアへ
溝をまたぐ
混んだ車内の
ぽっかり一つ空いた席に
祖母はゆっくり腰を下ろした
「 子供の頃
三味線の稽古に行った鎌倉で
美味しい蕎麦を食べたねぇ 」
「 あぁ、小町通りのあの店ね 」
戦後間もなく夫を亡くし
二人の子供を女手一つで育てた
若き日の祖母
一日働き飯を食べさせた子供等に
布団をそっと被せた後
月の光の射す夜
狭い畳の部屋に正坐して
密かに奏でる三味の音が
たった一つの潤いだった
「 昨日、戦場のピアニスト
っていう映画を見てね
廃墟の街で生き延びて
痩せ細ったピアニストが
敵の兵隊にみつかった時
埃を被ったピアノの鍵盤の上に
長い指を躍らせて
迫真の演奏を終えると
敵の兵隊は自分の上着を脱いで
( 寒いだろう )と
手にした銃をしまい
去っていって・・・ 」
手さげに長唄の楽譜を入れた祖母は
大きく瞳を開いて頷いた
「 今日の会、親戚来ないの? 」
「 妹は今イタリア行ってるからねぇ 」
「 ぼくもいつか異国の街をふらつきたいなぁ 」
「 わたしはローマに行きたかったわ 」
「 ローマに行く前に老婆になったねぇ 」
「 かわりに今日は、老婆の休日よ 」
( 今頃
( 鎌倉の霊園では
( 祖父の墓に彫られた仏様も
( にっこり寝転んでいることだろう
新橋駅に着いた
東海道線が停車すると
腕を一本さし出した
ぼくを支えに
開いたドアからホームへ
溝をまたぐ
人込みの階段を下り
改札を抜けると現れる
「ゆりかもめ」の駅
「 新橋も、変わったわねぇ・・・ 」
と呟く祖母を
ドアを開いて待つ黒いタクシーに乗せると
車内から皺の入った細腕をさし出し
千円札を三枚くれた
「 じゃあ、楽しんで 」
祖母を後部座席に乗せて
長唄の会場へと走る
黒いタクシー
桜吹雪の向こうへ
姿を消した