どうせ私をだますなら
山田せばすちゃん

だまし続けて欲しかった、というのはバーブ佐竹の「女心の唄」(作詩:山北由希夫 作曲:吉田矢健治 )の一節だけれども現代詩フォーラムの参加者の中でこんな歌を知ってる奴のほうが少ないことはいかな世情に疎い俺といえども容易に想像が付くというものだ(せいぜいがあおばさんくらいかしらん)。
もとより、作品=作者ではなく、しかも作品において作者と作中主体とはまったく無関係であり、さらに言うならば作者としての人格と実生活を営むものとしての人格すらも分けて考えるべきであることをかねがね主張してきた俺としては、とある作品中で作中主体がいかに自分が金持ちであると吹聴しようとも、いかに女にもてまくっているとほざこうとも作中主体の人格をどうこう言うことはあっても作者そのものの人格を攻撃することは厳に慎んできたつもりではあるし、それはこれからも変わることはない。
なんとならばそういうもの一切を同一視されることは、愛人にかまけて家庭を顧みない男であるとか、その愛人すらも都合が悪くなればあっさりと切り捨てて人でなし呼ばわりされる男であるとかの詩を書いてきた俺自身が、実生活でもそうであるかのように世間に取沙汰されることがはなはだ迷惑であったりするからでもある。つか余計なお世話だ(笑)

さてこちらにも投稿しているこれらの歌http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=90676を、某所に投稿する際に、「やべぇ、半分マジじゃん(笑)」とかなんとか「詞書き」付けておいたら「リアルですね。」などと御感想を寄せて下さった方がいたのだけれど、果たして件の「詞書き」なかりせば、彼は俺の歌を「リアル」だと受け取ったのかしらん? 書いてる俺自身は読者にそれがリアルなこととして受け取られようがそんなことはどうでもいいのだけれども。
ここで改めて明言しておくが、俺は休日の朝のマクドナルドで朝マック食いながら不倫相手と後朝の別れなんぞついぞしたことはないぜ? (ミスタードーナッツとドトールとスターバックスカフェではやったことあるけど。)

俺はリアリティというのは読む側に何らかの情動を引き起こすことの一部だと考えていて、しかも情動を引き起こすのは総力戦(つまりなんでもあり)だと思っているので、作中主体が作品によって立場を変えることも、作者自身が何らかの役割を詐称するのも、みんなみんな「あり」だと信じている。だまされた奴が悪いのだ。つかだますところまで君の情動を突き動かした俺の手腕を褒めやがれとか、そういうことも嘯いてみたくもある。

人様の書いたものを読ませていただくときにも、できれば俺は上手にだまされたいとは思うし、だまされることで俺が何らかの情動を引き起こすのだとしたらそれ自体が読書の快楽だと思っている。

だから御願いだから、嘘をつくなら最後まで上手についてくれ。敬愛する中島みゆきの歌のタイトルではないがどうか「永遠の嘘」をついてくれ。


散文(批評随筆小説等) どうせ私をだますなら Copyright 山田せばすちゃん 2007-03-26 20:44:17
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