佳子 1997冬
ダーザイン

「もしもし、もしもし、神様ですか?」
 祖父から譲り受けたアンティークの電話機で、佳子は今夜も何者かと会話している。その電話機は飾り物でコード゙は何処にも挿してない。まあ、神様の声を聞くのに電話線を介さねばならない理由というのも思い浮かばないが、明らかに佳子は崩壊しつつあった。佳子には僕の背中にぽっかりと開いた虚無が見えるそうで、毎日神様にその穴を埋めてくれるようにとお願いしてくれているのだった。
 始めは些細なことだった。対人緊張の度が増し、雑踏の中に出るのを怖がり部屋から出ることが出来なくなった。毎日日没時になると窓辺から恐怖に慄いた目で夕日を眺め、「つれてかないで、つれてかなで!向こう側へ連れてかれちゃう、淋しいよ、淋しいよ」と泣き喚き、「あんたはぜんぜん私を見ていてくれない」と僕を責め、終いには車のキーや靴を隠すなどして僕の出社を妨げるようになった。
 全ては僕のせいだった。ピラミッドを逆さに立てようと試みたかのような僕らの生活、はたしてそれが生活と呼びうるようなものであっただろうか。
 或る時僕は探偵だった。最初から存在したことのない何者かを追跡するのが専門だった。また或る時僕は夜警だった。4頭の巨大な象の背中の上に支えられた円盤状の世界の果てで、決して届くことのない何者かからの合図を待つのが勤めだった。全ては虚無が、僕の中の虚無が原因なのだ。
 神様との電話が始まった頃のとある晩、職場に病院から電話が来た。佳子を保護しているので直ぐ来てくれとのことだった。病院で会った佳子からは全ての表情と言うものが消えていた。何を問い掛けても反応がなかった。電車の中で、「うるさいわねえ、黙っていられないの!」と叫んだ後、昏倒したのだという話だ。入院することになった佳子を置いてアパートに戻ると、居間の床一面に土が撒かれていた。いやはや今度はアパートまるごと使ってガーデニングかい?片付けるる気力も湧かず、ソファーにごろりと横になる。サイドテーブルを見ると、空になったナデシコの種子の袋が幾つも幾つも几帳面に折り畳まれて、星型の図形を作っていた。
  *
 最後の入院から帰ってきたその年の冬、佳子は麻痺したようにぼんやりと窓の外を見ていることが多かった。相変わらず神様との電話は続いていたが、もう夕日を恐れることはなくなっていた。
 その日、朝早く目覚めた僕は久々に佳子を外に連れ出すことに成功した。テレマークを履いた僕らは、近くの河川敷の疎林をゆっくりゆっくり散歩した。遥かな空の青みから幾筋もの光の帯となって射し込んで来る木漏れ日がとても美しかった。久々に身体を動かしたせいか上気した顔で息を弾ませながら佳子は言った。
「ねえ、えいえんってこういうものなのかなあ。」
 そうかもしれないね。
「ねえ、えいえんって何?どんなえいえん?」
  さあ、どんなものだろう、きっとお日様の光のように暖かくて優しいものなんじゃないかな。
「そうかなあ、そうだといいね。」
 誰もいない林の中に、雪球を投げ合って子供のように戯れる佳子の声が木霊した。
  *
 その晩、仕事を終えて部屋に帰ると、佳子の姿は灯油のポリタンと共に消えていた。けたたましいサイレンの音がドップラー効果を実演しながらアパートの前を通り過ぎていく。救急車のサイレンの音を追って河川敷へ走ると、人垣の向こうの雪野原の中に、人の形をした炎が灯っていた。
   *
 その後、僕も何度か神様に電話をかけた。
「神様、神様、これもあなたが望まれたことなのですか?
   *
 神が答えるわけがない。


散文(批評随筆小説等) 佳子 1997冬 Copyright ダーザイン 2004-04-19 05:19:51縦
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