水面を泳ぐガチョウ
ツ
こんなにもヒトの気持ちを不安定にさせる。それは
光の波になって、うねりになって、際限なく脳内に押し寄せてくる
あふれ出した感情で、脳内のキャパ(シティ)タンクは容量オーバー。
ぼんやりガードしてたはずの感情の臨界面はあっさり破かれたまま、
やがて自分(キャパシティの容れ物)も、世界も、決壊して、オーバーフロー。
しょっぱいものがうるんだ水面からこぼれ落ちてくる。
いままでにそんな経験をどれだけできただろうか。
この先にそんなことがイクツあるだろうか。
そういうあるしゅの強烈な体験のイクツかが、こんなにもふじゆーな
いまの自分のイクラかを形作ってるんだとしても。
刺激を、新しい意識を、求めつづけるってことは、裏返せば
刺激にそのものに耐性をツクリそこにパタンとマンホールのフタを
掛けてしまうことでもあるわけで、
ようは慣れると何でもそれが無化してふつーになってしまう。
広がったぶんだけ鈍くなり見分けが付かなくなってしまう。
むかしレコード屋なんかで偶然出会ってえーきょー受けたアルバム1枚にしても
自分の中で何かが変わった気がしたそのときの感じを、
いまそっくりリピートすることが出来るだろうか。
たとえば、そのときの、アオ臭い疾走感。空の色。どうしよーもなく
手に負えないようなキモチ。
たとえば、そのとき、そこで、そいつに、出会えてなかったとしたら、
こんなにも無数に溢れる情報(刺激)の中から、僕は「そのとき」の自分と同じ目をして
いま、「そいつ」を探しあてることができるだろうか。
ある日、大切に飼っていたペットのガチョウのためにと、
仲間(ガチョウ)たちがたくさんいる牧場へ自分のガチョウを連れて行き
その場で離してやった男は、日が傾き、そろそろ自分のかわいいガチョウを
連れて帰ろうとしたときに、一体「どれ」が自分のガチョウだか
まるで見分けが付かなくなってなってしまい、
とりあえずてきとーにガチョウを1羽持ち帰った...というどうしよーもない話...。
交換可能であったとすら言えてしまうそれ...。
...話が大きく脱線してしまったが、
「そして」「僕」は「そのとき」「そこ」にいた。
たぶん水面下で無限に折り重なるそのめぐりあわせだけが、
いまの自分を成してるよーな気がする。