ベルセーズ
もも うさぎ

彼は 物書きだった
彼は古いランプを持っていて

ほかには何も持っていなかった


紙も
ペンも

なにも持ってはいなかったのだけど

彼は物書きだった


パリからオルレアンに向かう
列車の駅の前の 小さなアパルトマンの

日の薄く翳る半地下で

列車の轟音と
どこからか聞こえる古時計の時鐘と

昔読んだ古い書物

頭のなかの言葉が 彼のすべてだった



はずだった




あるとき

彼は上の部屋から
ピアノの音が聞こえるのに気づいた




ベルセーズ

それはただ繰り返して弾かれ

夢遊病のように甘いメロディーを

蜂蜜のようにしたたらせて



駅のほうからアパルトマンを見やれば

ベージュのドレスを着た少女の影が
そっと窺えた



彼はそれを 胸の奥深くにしまってしまった




いつはじまったのか分からないメロディーは

いつやむとも知らず


それは何十年も何百年も繰り返されるように感じた

それは彼の情欲を溶かし

甘美な言葉ばかりを
妄想のなかに
幽霊のように 巣くった

列車の音も 時鐘も
いつしかやんでしまった

ただひとりで彼は
その情欲を持て余した


天使のような

葡萄のはじける蜜を
その舌であつめたような

そこに彼は

突き刺し貫こうとしていた


朝から晩まで繰り返して弾かれる

絶頂のない耽美


ベルセーズ







もうたくさんだ!!!








彼はランプを手にし

ピアノの聞こえる部屋へ向かった


上の廊下を歩くのははじめてだった

こころのなかに矢を隠し持って


薄暗い木の床に靴の音
揺れる音色

血走った目に

そっと悲しげな夢を宿し


彼はその 扉をあけた









そこには

なにもなかった







ピアノも

ベージュのドレスの乙女も




彼は

自分のこころの矢が
それを貫き殺してしまったことを 悟った

情欲の逆は 沈黙だ

そこにはなにもない



林檎ひとつ

ない 静けさの向こう側



静寂











彼は書いた

紙がなければ 壁に書けばいい

ペンがなければ 血で書けばいい


簡単なことじゃないか

叶わぬなら

どうして


彼にそれを与えたのか


音はいまだ揺れる
こころのなかを
ランプの火のように


消すことの 意味を彼はもたない


だから彼は

自らが消えてしまうことを選んだ




こうして彼らの芸術は
なにも残さず 沈黙した










その駅は 今ではオルセーという美術館に姿をかえて現存している
界隈には古いアパルトマンが立ち並び
静寂の中にまなざしを隠し持っている

たくさんの恋人たちが 消えたランプを目印に 愛を囁き合うのだ











〜ベルセーズ〜




散文(批評随筆小説等) ベルセーズ Copyright もも うさぎ 2007-02-01 10:57:41
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