2008 06/29 23:42[196]
ふるる
「日本人の発想、日本語の表現 「私」の立場がことばを決める」森田良行著 を、読みました。
日本語というのは、場面依存型で、受身で、自分から見た外部、という表現をするそうです。
常に外部の状態と関係を見て、「私は、私は・・・」という表現をしていく。「私から見たら・・」が基本なので、会話に一人称はいらない。そして、一人称にしか適用できない言葉も多いから、わざわざ断る必要もない。(彼は嬉しい。とは言わない)
例えば情意的副詞が発達していて、「恐らく・多分・きっと・ひょっとすると・もしや・さぞ」「どうやら・まんざら・てっきり・あいにく・まんまと」「せっかく・どうせ・いっそ」「せめて・なまじ・とても〜ない」などなど。表現の随所で話者側の評価や把握の態度を言葉に散りばめているんだと。で、読む方や聴く方も、そういう副詞の微妙な違いから相手の言わんとすること(というか、相手がどういう立場と見方でものを言っているのか)を読み取る。
さらに、立場的には受身の姿勢で、「好きだよ」とか「春が来た」とかいう言葉も「「好きである」になっちゃった」「春が来ちゃった」という意味の、「なんか知らないけどそうなっちゃって、自分ではどうにもできない」ということかららしい。
つまり、客観的事実として自分の感情や評価を交えずに外部がどうだとか言うのはすごく苦手で、自分にとって外部との関係はこうだから、自分は(空気を読みながら)こう思っていますよ、しかも自分にはあんまり責任はないんですけどねえ、ということが得意。「私は、私は・・・」とは言うものの、決して自己中心的というのじゃなく、むしろ常に人目を気にする言語なんだって。場面によってキャラ設定をして、それを演じるために言葉を駆使する、ということかも。
でも・・・他の国だって遠まわしに言うってことあると思うけど。日本語ほどじゃないのかな。
しかも、構文もいくらでもだらだらくっつけられるものだから、始めに結論が決まっているような論理的な記述は書きにくい。
日本語の、論文の書き方とか国語教育が「まず全体を見渡して」「作者の言いたいことは」「自分の言いたいことをはっきりと」というやり方なのは、日本語はそういうの苦手だから型にはめちゃいましょう、ということらしい。
この間本屋さんに行ったら、「穴埋め式読書感想文」というのがあってびっくりしたのですが、そうするしか、筋道だった文章を書きにくいんだろうなと。外部との関係が分からないと文章作れないところがあるから、日本語の微妙な違いに慣れていない、空気読みにくい子供にはよっぽど難しいですよね。sage