云ってはならないことを云ってしまおう/窪ワタル
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 木葉 揺 
私にはまだわからないことがあるので、
この文章から学ぶことがあります。
- モリマサ公 
オリンピック選手は一般競技者をバカにしたりその技術やダメさ加減を愚痴ったりはしない
そういう選手がその競技の魅力や可能性をいくらいったとしても無駄
プロアマオープンの表現の場そのものは一つの表現ファクターとしてきちんと消化されるべきである
といういみでちょっとしたあやまちという美しい例だとおもう
ひとつの危機感として
補足:そしてその成功に


- たもつ 
まあ、普通にたとえばテニスでも野球でも、巧くなろうと思ったら先ずは基礎体力をつけること。走りこむのが手っ取り早い。詩も巧くなりたければ、基礎体力を。読むのが手っ取り早い。批評まで書ければ文句ないけど、時間の制約がある人が大抵だろうから。詩を読むなんて地味な作業ですけれども、ですよ。趣味でゴルフをやってるおじさんが普段から走り込みをしないように、詩を読むなんて面倒くさい、という気持ちはわかるけど。でも、走りこめば、確実にスコアはあがります。
で、読めばやっぱり面白いですよ、詩って。ランナーズ・ハイ、という言葉があるように、良い詩を読んでるとこみ上げてくるものがあります。
問題は、それではその詩をどうやって手に入れることができるか。自分は千葉の田舎者なので、普通に書店で手に入る詩集は商業べーすの上っ面だけのアフォリズムっぽいものばかり。PJなんかを活用する、くらいしか言えません。
- 岡部淳太郎 
よくぞ言ってくれました。
- Tommy 
詩を書くなと言ってはいけないでしょう。あまり読まずに自分で素敵な詩を作り出せる人もいないとは限らないので。でも、詩を書きたいと思う人にとって、詩を読むことは、同じように刺激的で楽しいことだと思います。
僕はほんとうに詩と接しはじめたばかりなので、詩を読んで、何がいいのか分からないことも多いですが、いろいろな詩を楽しんで、自分でもちょっと書いてみたりしています。それで楽しんでいるので、それでいいと思っています。
どうせアマチュアだからなどと言わずに、読むほうの楽しみも多くの人に味わってもらいたいと思います。その点で賛成だったので、ポイント入れさせていただきました。
- くれいじー・こすぎ 
- むらさき 
いいぞーー!これが「精神」というやつです!!!!
- 加藤泰清 
これはきっとオレのことをいってるんだああああああ
なんてことはこれっぽっちも思っていませんが。
うん。
しかし、オレにはこのぶんしょうを肯定できるほどの頭と文章力をもっていない(!)。
もう少し大人になりたい。潮f否、詩を読みたい。

それでもオレは((?)ちょっとでも)よいなあ(?)(!)とおもっちゃったので、
こうして一票いれさせていただきました。
- きりえしふみ 
 この文章と相反する文章に此方のurlが掲載されていたので、拝読するきっかけとなりました。私も大体そのような事を思っています。
 別に全ての文人の作品を余す事無く読む必要はないのですが、歌詞を読んで詩らしきものを書き出した人と、詩を読んで詩を書き出した人とは根本的に差が出てしまいます〈勿論、書き出した後、先人の詩を読んでみることで、差は徐々に和らいでいくのでしょうが)。
 実際私が先人の詩集を買うようになったのは(それ以前は数冊しか読んでいませんでした。シェイクスピア、ゲーテ、金子みすヾさん等です)、去年某出版社の詩の賞で佳作を頂いてからです。別に詩集に興味が無かったわけではなく、何冊か読んだ中で、素晴らしいなと思う詩人さんが、たまたまいなかった(金子みすヾさんは素晴らしいですが童謡詩人でいらっしゃるので、何か少し特別な感じがしました。シェイクスピアとゲーテは素晴らしいけれど、日本人ではないので、日本の詩人にはいい詩人が余り居なかったのではないかと勝手に思い込んでいました)ので、余り興味が持たなかったのです。しかし、同士がもう彼是四年近く中原中也がいいと言っていたので、書店で見つけたとき買いました。その後はたまたまハルキ文庫等で出ている詩人の詩集を見かけると買う、という事をして(それ以外も活字の本を毎日のように買い漁り)、今では多分大抵の先人の詩人の詩集は読んできたと言えるのではないかと思います。古学びという言葉を「美人の日本語」で知ったのも原因の一つになりましたが、その時まで先人の詩人の詩集を余り読んでいなかったことに後悔を覚えました。素晴らしいものがあんなにあったのですから。ただ、書き出したのは随分小さな頃で、教科書で読んだ詩がきっかけだったと思いますから、詩に感化を受けて書き始めたことは言えます。実際、何篇か教科書で習っていて覚えていたフレーズがあって(学生の時習ったのだからもう何年、物によっては十何年も覚えていたということですね)、去年その詩の何篇かと再会して、「何故忘れていたのだろう!」と頭を抱え込んでしまったものです。
 人によっては、「天才は何もしなくても(寧ろ、努力なしに出来る人が)天才だ」と思っていらっしゃる方もいるでしょうし、「人の書いた物を読んだらオリジナリティがなくなってしまう」という思い込みを持たれている方もいらっしゃるでしょう。しかし、その二つは有り得ないことだと思います。努力せずに時代に受け止められたのは、単に奇抜だっただけで一発屋で終わるのがオチです。また、私たちは生まれてこの方、見るもの聞くもの触るものの全てに影響を受けているのです。オリジナリティって声高に叫びたい人の気持ちも分かりますが、その事実がある時点で、オリジナリティというものは、自分の気持ちと歩んできた人生以外に有り得ないと思うのです。であるなら、どうせ影響を受けるのならば、より素晴らしいものから影響を受けた方がいいように感じました。
 また、昔の文人を悪く言う方については、ただ古臭いと誤解して読んでいないか、怠けて読まずにいるかは別として、読んだ上で彼らを否定する方は、嫉妬ゆえに彼らを煙たがっているように思えません。本物を前にえらそぶっているとかいう方々も、えらそぶっていると色眼鏡を付けて彼らを見て、勝手に思い込んでいるだけに過ぎないように思います。
 あるオムニバスの本に、詩という言葉の成り立ちが書いてありました。言葉を長く留めるという意味が詩には込められているそうです。 ただムカつくから吐露の為にただの自己アピールの為に書いている、先人の詩を読んだことも無い、またその足跡を否定する方々は、詩は書けていない場合が多いように感じます。
 現代の方が新しいから優れているだなんて考えは、愚かで浅はかだと思います。私としましては、自分が生きる現代の土台を作った過去に生きた人々を否定することは、現代をも否定することのように思います。昔書かれたものだから古いと切り捨てるのではなく、影響を受けながら自分たちなりにアレンジするなり、幾らでも現代と昔の色のようなものを美しく混ぜ合わせる方法はあると思うのですが。
 何というかバランスは大切です。読んでいる人も余り読んでいない人に対して馬鹿にする必要もないし(でも、本当は馬鹿にしている人なんて殆ど居ないのだと思います。それ位知っていて欲しいと思うその程度ですよ。恐らく)、全く読んでいない人、過去の詩人を否定したいという稀有な人も読んでいる人を否定する必要もないのだと思います。ただ言える事は、一度として先人の詩に感動を覚えなかった人は、詩とは何かを感覚的に分からない訳で書けない場合が殆どであるということです。何故なら大抵の能力は他の活字の本を読むことで補えるのですが、韻というものは、詩(若しくは和歌)を読まないと(若しくは、手毬でもしながら手毬歌を歌う等)身に付かないからです。しかし、他の活字の本を愛読している方は詩集を読むことを面倒だとは思わないでしょうから、読んでいるでしょう。
 
- 山内緋呂子 
>詩人はその「分ったつもり」「知ったつもり」の物事を捉えなおし、普段何気なくに過している「空」や「りんご」にもう一度立ち止まり、捉えなおそうとする者のことなのだ。
>空を見上げて、隣の人と同じ空に、隣の人とは違うものを発見する時「詩」は生まれるのだとおもう。
>その「空」は、もうありきたりな「青い空」という言葉では表し得ない、云わば「新しい空」なのだ。その「新しい空」に相応しい言葉を捜そうとするのが、詩作と言う試みなのだ>と俺は信じている。

長い引用で、また、特に論じることもできませんが、すみません。この部分にとても共感しました。私も書き始めてから多数読むようになりましたが、自分と、他者との境界線がよく見えるようになった気がします。
- 結城 森士 
- 塩水和音 
- イダヅカマコト 
俺は詩の場所に書いたものを置いてるけど詩を書いたとは思ってないんだよね。

むきになったような反応しか返せないし
そんな反応でもたくさんあるというだけで
俺はこれにポイントを入れる価値があるとおもう
だからいれる
そんだけ
- ヌヌヌ 
- はらだまさる 
極端なもの謂いだけど、気持ちとしてはわからなくもないです。
ダーザインさんのを今から読んできます。今更ですけど。
- プル式 
まったくそう思わなかったので。
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- 壺内モモ子
コメントを書こうかどうか迷ったのですが・・・辛いです。苦しいです。なぜならば、恥ずかしながら私も、有名な人の詩をあまり読まないからです。

私は、詩を書いているというより、伝えたいことを書くというより、「ことばあそび」、「言葉の羅列を楽しんでいる」という感覚でこのサイトに来ています。だから、詩とは何かなんて知りたくもないし、考えたくもない。いろいろなものを見て、触れて、感じて、自分の言葉を見つけていきたい。そして、このサイトでたくさんの人たちが見つけた言葉に触れていきたいです。私が詩人かどうかなんてどうだっていい。「詩を読まないやつは詩を書くな」。そう言ってしまわれると胸が痛みます。
- イズミナツキ
同じく、僕も「ことばあそび」「自分の気持ちを表現」したくて此処へ来ました。
詩人として来たわけではないのです。
しかし、詩作をするからには、どうにか詩人らしい詩で、気持ちの表現と、言葉を追い求めています。
元々言葉が好きですので、さまざまな詩を読んでは感動し、こういう表現もあるんだな、と勉強しています。
最初は正直、詩なんて誰でもできる、と思っていました。
ですが、此処にある詩を読んでいると、誰にでもできないなぁ、と思いました。
書けるには書けるけど、詩人さんとは違う。
自分でも何言ってるかよくわからないですが、耳が痛むばかりです。
いやしかし、ありがとうございました。
- 日雇いくん◆hiyatQ6h0c
昔こんなような意見が新宿花園神社の裏あたりで聞こえたとか聞こえなかったとか。
- ふるる
私は、詩を書き始めて1年くらいはあまり昔の有名詩人の詩を読みませんでした。すごく影響を受けて、無意識にでも真似になったら嫌だと思ったので。
そういうこともあるし、たくさん書いて初めて読みたいという気持ちが沸く人もいるし、書くのと読むの、順番はどっちでもいいと思うのです。
残念ながら、「詩人はそう思っている」というのは、「分かったつもり」の言葉だと思います。
- 恋月 ぴの
「作者より」を拝見して:
1.批評・批判の対象は公に発表されたものに対してであり、作者自身、作者の思惑とは何ら関係無いことは承知されておられると思います。ですから、作者の本音として、そうは思っていないとコメントされても意味をなさないと考えます。

2.窪さんのHP拝見したのですが、詩の朗読会に関わっておられるとのこと。「言鳴り」については実際に覗かせていただいた訳ではないのでなんとも言えませんが、自分の数少ない経験(朗読会への聴衆としての参加経験)から判断すれば、朗読される詩作品は既存の所謂現代詩とはかけ離れた、遊離したものが多いように感じます。窪さんはそんな現場に関わって肌で感じられている訳ですから、詩に対する考え方がもう少し寛容であってもよいのかなと思ってしまいます。
- 佐々宝砂
あはははは、今更こんなこと、言わなくてもいいのにw
何年も前から言ってる人はいってることよ。
まあ言いたかったら言ってもよいのだとおもふ。
この文章の場合、不快極まりないとの感想もらったら、
もちろん、誉め言葉だってわかるよね。
- つかさ
 ご本人が「暴論」とか「不毛な代物」と書き、「そうした代物を公にした以上、あらゆる批判は甘んじて受けます。反論はしません」と宣言しまった以上、窪氏の文章は単なるマゾヒスティックな願望の発露であったとしか思えないのですが、それでも釣られたいと思います。

 この文章で、私が引っかかった点がとりあえず2つありました。(本当はもっとあるのですが)

1 「詩を読まない奴は詩を書くな」という主張。
2 いい詩を書くために一番大事なことは、他人の詩を読むことだという主張。

 窪氏が愚痴っている対象者は「特定の個人」ではないそうですが、そもそもどんな人を想定しているのでしょう。
他人の詩(おそらく現代詩)を読みもしないで「難しい」「キモイ」と言い、詩を書くことは簡単だと思い、「自分の気持ちや思いを書きたい」と主張している人のようです。窪氏はそういう人を否定している、と読めます。
 しかし窪氏が本当に批判したいのは、そういうことではないはずです。他人の詩を読まなかろうが、詩を書くことが簡単だろうが、自分の気持ちを表現したかろうが、結局そのこと自体は批判するには当たらない。そんなのはどっちでもいいことです。ただ、その人の作品が読者にとって面白いかどうかのはずです。窪氏はどうやら、自分にとって面白くない詩があり、その面白くなさの原因が作者のそういった考え方にあると断定したがっています。そしてその断定の根拠は、「いい詩を書くために一番大事なことは、他人の詩を読むこと」だから、のようです。
 「新しい空の発見」という、詩的表現についてのありふれた解説などから読み取れることは、詩的表現が「先達の詩業」の中にしかない、という考えです。しかしそれは嘘です。窪氏も書いているように、小説や音楽などの表現、その他日常の様々な場面に、詩的表現や詩的なるものは存在しています。さらに、ピアニストがピアノの練習をすることと、詩人が詩を読むことを同一のことだと主張していますが、詩が言語であるという特性上、詩を読まなくても詩的言語の訓練は常になされている、と私は主張します。
 これだけ短くては反論にもなってない気はしますが、ともかく「詩を読まなくてもいい詩は書ける」ということは言っておきたいと思います。
 もちろん、他人の詩を読んでも一緒だとか言うつもりはありません。私自身は詩を読むことが好きですし、参考にもしています。

 ただ、窪氏が本当に言いたかったことは単に、「面白くない詩を書くな」ということなのです。それであれば納得できるのに、よくわからない根拠を出してしまっただけなのです。そして、「面白くない詩を書くな」と主張したいのであれば、窪氏にとってどういった作品がそういう詩であるのかを明示して語るべきだったのです。さらに「そう主張する自分の詩は面白い。理由はこうだから」とまで言えればかなりかっこよかったのですが、無様な逃げ道を自分で作って言い訳しているのはとても悲しいことです。

 窪氏の主張に反論するには、実は一言で足りるのかも知れません。
 膨大な他人の詩を読んではいるが、どうしようもなくつまらない詩を書いている人がいますよ。と。
 
作者より:
choriくんへ>追記ありがとう。
「現場」の定義について、俺も、君とほぼ同じ意味で使っています。

誤解があったりするとしても、この文章の文責は俺にあります。

朗読と言う形式で「詩」を世間に開いてゆこうとする試みを企画し、主催しています。
演者としてもステージに立っています。そこでいろんな表現者を見ます。同じステージにも立ち、お金を頂戴してお客様の前に立ちます。その場のことを「現場」と表現しました。
それが適切な表現であるかどうかは分かりません。ただ、やっている者の実感としては「現場」と云う言葉はピッタリくる言葉なのです

皆様ありがとうございます。
正直、これだけ多くの反応があるとはおもっていませんせした。

この拙文に対しては、文中でも述べたように、不快感を抱かれる方がいらしゃるとおもう。コメントの一々に対して返答することは差し控えますが、コメントを下さったこと、こんな拙文をしっかりと読んだ上でのコメントだと思えますので、素直に有り難く頂戴いたします。

ただ、この文章の性格について、改めて書いておくべきかとおもいます。
この文章は、愚痴であり、苛立ちであり、暴論であり、何らの建設的な提起でもありません。つまり、大変不毛な代物であると云い切れます。
しかしながら、そうしたものであったとしても、云わずには居られないということがあるとおもいます。ですから、そうした代物を公にした以上、あらゆる批判は甘んじて受けます。反論はしません。

ただ、だからこそ、この文章の表題は「云ってはならないこと・・・」なのです。俺は、誰かに対して、今もこれからも、「詩を書くな。」云えるものだとは思っていません。それについては、あをの過程くんが、指摘してくださったことに尽きるだろうとおもいます。賢明なもの書きや、詩人ならば、こんな文章は書かないでしょうし、この文章の「詩を書くな。」が正論だなどとは云いません。そんなつもりで書いていませんし、今後もそうしたものは書かないでしょう。「詩」が多くの人によって書かれることそれ自体は、素晴らしいことなのであって「詩」の世界にとっても多くの可能性を準備する力になるだろうと個人的にはおもっています。ただ、choriくんがはからずも述べて下さった様に、この文章で述べたことの全体は、詩と係わる現場にいる人間の一人としての本音でもあります。矛盾していると分っています。それでも書いて置きたかったのです。

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