嘘つきは詩人の始まり(下書きよりの抜粋)/窪ワタル
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- いとう 
言葉は嘘でできています。
- 霜天 
- イズミナツキ 
共感しました。
いとうさんの言うとおり言葉は嘘でできているのでしょう。
言葉だけなら何だって偽れますからね。
- 久米一晃 
- 塔野夏子 
- 岡部淳太郎 
-  
- かおる 
- たりぽん(大理 奔) 
- 瓜田タカヤ 
- 服部聖一 
- 望月 ゆき 
言葉にした時点で嘘になってゆく、ということも多々あります。
わたしも嘘の中にいるなぁ、と思ったりしました。
- モリマサ公 
フォーラムではなかなかみられないコメント欄の充実とそれらの内容のまともさに
- メルロー 
- 木葉 揺 
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- 恋月 ぴの
お説によると詩に限らず、言葉を用いる総ての文学は嘘のかたまり
になりますよね。そもそも言葉を用いて思考し、言葉を用いて
コミュニケートしている訳で人間そのものが嘘のかたまりって
ことなのでしょうか?

頭の中で考えていること自体が嘘になるわけですから、人間そのものを
否定しているようにも聞こえます。まあ、確かに人の存在こそ
大自然からみれば嘘であるわけで、お説自体も嘘のかたまりに
なりますし、このコメントも嘘な訳です。

しかし、このような嘘をお書きになれるということは、《本当》がある
との前提に立っているようにも思えます。本当の言葉と嘘の言葉との
違いはなんでしょうか?

(追記)
概ね了解いたしました。お説のとおり書き手にとっての私と私の位置関係はおっしゃられているとおりだと思います。ただ、読み手側のスタンスとしては自己の経験と照合作業を行いながら詩(詩に限定するとして)を読むわけで私と私を切り離して読むことはしないと思います。(一般論としてです)

演劇で言えば俳優は役になりきって私を演技をし、観客は演じられている私に感情移入するから(疑似体験)こそ感動できる。そんな気がします。テレビドラマに感動するのも同様な作用によるものでしょうし。

ひとつだけ思うのは、一般論として人を感動させる詩とは経験に裏づけされた(嘘による)詩じゃないかという事です。(別に人を感動させる必要があるか否かはとりあえず置いといての話しです)


(追記2)
えっと、特に反論とか異論を述べるつもりは無いのですが、参考までに
お聞かせ願いたいことがひとつあります。

窪さんの「肉じゃが」「天動説の子ども」を拝読させていただきました。
いずれも良い詩だと思うのですが、この2篇ともお説のスタンスによりお書きになられたの
ですか?


 
作者より:
chori氏主催の朗読詩人ワークショップ「ENTA!」のレポート「嘘つきは詩人の始まり」の下書きより抜粋しました。

いとうさん>同感です。
たんたんさん>言葉にしようとすると、書き手の本質がさらけ出されてしまう事があります。勿論、全然出ない場合もあります。

和泉さん>言葉だけなら偽れるはずですが、俺は未熟なので偽りきれないものをよく書いてしまいます。立派な大嘘つきになれるように精進します。

たこさん>嘘であると云えないでいる頃は、そもそも詩なんて書けないでいました。
今、その頃と比較して幾分マシになりました。まだまだですけれども。

Yockさん>俺は、詩に振り向いて欲しいので詩について考えるようにしています。
それは、詩が言葉で出来ているからには言葉について考えると云うことになります。
すると、結論から云って言葉は嘘によって出来ていると気が付きました。
ですから、御質問に添って云うならば文学は嘘の塊です。少なくとも嘘の作用を使わないで詩や小説を書くことは出来ないと俺はおもいます。

コミュニケーションは多くの場合言葉のみで成り立っていないし、詩は、コミュニケーションに近い要素を持った文芸ですけれど、コミュニケーションの手段ではないと考えています。それから、思考するには、確かに言葉を使いますけれど、人間は言葉そのもので思考しているのではなくて、脳で思考したことを整理したり、納得したり伝えたりする道具として言葉を使うのだと考えています。

本当な事というのは、言葉に書く時には嘘の力を借りた方がよりよく伝わるのだと経験的に云うことが出来ます。読者の記憶に働きかけてある種のイメージを抱かせるためには、事実そのものでは力が弱くなってしまうとおもっています。第一、ある事実はそれが起こって、終ってしまったら、過去のものになるわけですから、過去は再現しようとする時点で、過去そのものではないのです。

人間そのものを否定しているつもりはありません。そう受け止められたのなら、それは、俺の文章力の不足から生じた誤解ですので、申し訳ありませんとしか言いようがありません。ただ、人間は、言葉を獲得する以前から存在していましたから、その存在が言葉によって失われたりはしないとおもっています。

例えば、人間という名称自体人間が勝手に付けたものであって、初めから名前のあるものななど、少なくとも、人間が認識したり、想像したりしているものの全てが、元々は名前のないものだったわけですから、人間が勝手に便宜的に名付けているに過ぎないのであって、この事自体本当ではないわけです。勿論それは必要だからであるし、決して悪いことではないとおもうのです。嘘にはいい嘘と悪い嘘があるとおもうのです。悪い嘘とはついてはいけない嘘であり、いい嘘とは、それが必要な場合につく嘘だとおもいます。
詩について云えば、それが必要だから嘘をつくのであって、その中身には吟味が必要ですけれど、多くの賢明なもの書きは、悪意を持ってそうしているわけではないと俺はおもっています。当然ながら、例え、悪意がなくても、ある人を傷つける場合もあることを覚悟しなければならないとおもっています。言葉の持つ暴力性を認識しておかないととおもいます。

ただ、基本的に文芸は、小説がそうであるように、事実を基にして書かれていても、書かれたものそのものは嘘であるという暗黙の了解が確立しているとおもうのですが、詩の場合そこがどうも危うい(弱い)というのが残念ながら現状のようです。作者=話者(主人公或いは登場する人物や、語り手)だとおもわれがちなのはそのせいだろうとおもいます。これは、俺の経験的実感でしかないので、断言することは危険なのですが、作者が話者とかなり近い場合でも、書かれた内容が、概ね事実に即していても、作者=話者にはなり得ないのではないかとおもっているし、事実としてイコールであったとしても、イコールではないと云う前提で書かれ、読まれて然るべきだとおもっています。

書く事は、客観的に見つめなおすことであり、自身の事であっても、冷静に、まるで他人を見ているように捉え直してから書かないと、まともな作品にはならないと、これも経験的に実感しています。これはなかなか苦行ではありますけれども、詩を書く以上、その冷徹さが必要だとおもっているし、それがない、或いは弱いと、その詩は閉じたものにならざるを得ないとおもいます。閉じたものでは、他人の記憶や、イメージに働きかける事はできないか、できてもそうでないものに比べて貧弱な詩になってしまうとおもっています。詩も、詩に限らず、文章は全て、人様の記憶と結びついて、人様の脳(心)の中で再生されて初めて成立するものですから「人様に再生してもらい易いようにするための嘘」が欠かせないとおもっています。この事を突き詰めると、詩や、詩を構成する道具である言葉は、嘘だと云って差し支えないと俺はおもっています。

追記されて居られることは、感覚的には大筋で合意できる面もあります。
まったくの私見ですが、読者としては、詩の話者と作者を切り離して読み辛い作品、またはそのように切り離して読むと楽しめないとおもわれる作品に出会う事があるからです。その作品への判断は別として、そういう種の作品は、概ね、作者=話者として読まれる事を、作者自身が覚悟の上で、或いは望んでさえいるのではないか?とおもう場合が多いです。しかしながら、それは原則として、詩を読む姿勢としてはいい読み方ではないとおもってもいます。

それから、演劇について云いますと、高校時代の経験に添って云えば「成り切る」はあまりいい役者ではないとおもいます。何処かに客観的なもう一人の自分がいて、成り切ろうとする自分を制御していなければならないと教えられていました。俺は大根だったので、成り切ることさえ到底出来ていませんでしたけれども。

詩は、客観的な自己によって書かれるとおもっています。少なくとも推敲するときにはそうしないといけないとおもいます。話者に成り切ってしまってはいけないわけです。

それから、これも俺の実感でしかないのですが、知らないことは書けません。知る、つまり情報を得る手段は、実体験によるものもあれば、本や、映像や、他の様々な芸術や、それこそ様々なものからの借り物が素材になります。借り物をそのままの形で真似てしまうと下手をすると盗作になるので注意が要りますけれども、そもそも、言葉自体「オリジナルの言葉」ではない場合が殆どだとおもいます。俺は、言葉は過去からの借り物だと考えています。ですから「作る」のではなく「拾ってくる」なのです。
実体験に裏打ちされたものに力がある事はその通りでしょう。しかしそれは、その作者が、その体験、経験を、客観的に見つめ、作品へと高める事ができたか、或いはそうしようとした過程が見える場合に感動するのだとおもいます。

矛盾するようですが、俺は、読者は無責任でいいとおもうのですよ。作者が、話者=作者と読まれることを避けたい場合は、それが避けられるように書くのが本当でしょうから。
ただ、話者=作者と読まれることは、俺の場合窮屈だし、一般的に云っても正しい態度ではないとおもいます。創作物と、作者は別の存在なのですから。

追記2について
勿論です。詩は嘘でできているのですから。
ただ、文章の中でも書きましたように、結果的に感情に突き当たるので、自己がさらけ出されてしまうと云う場合も多いですね。でも、それは俺の場合意図したことではなく、あくまで結果そうなってしまうことがあると云うことです。
「肉じゃが」は、完全な作り物の中に、しかし、俺自身の感情が深く入り込んでいる詩です。「天動説の子ども」に関しては、大切な詩ではあるけれども、客観的になれないまま言葉にしていましたから、非常に弱いものになったとおもっています。ただ、実体験に即したものだけに、何かを受け取っていただけた方は多くいて下さったようで、それは素直に喜んでも良かろうとおもっています。

「想像力」とか「比喩」というのは、嘘名わけですから、その力を借りる事は、嘘の力を借りることに他ならないわけです。

それから、この二つの作品とも、言葉が先にあった詩です。予めテーマが決まっているという事は、俺の場合、極稀なことと云っていいです。書いているうちに、今書きたいとおもっていたことにぶつかるのですね。“ああそうか俺は今これが書きたいのか!”と、気が付くわけです。そこから詩を手繰り寄せて行くのです。なかなか上手くいかないんですが、予めテーマを決めておくような書き方は俺の場合自然ではないのだとおもいます。



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