小中学生と詩人のための共同幻想論入門2/一輪車
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- ひだかたけし 
---2020/01/17 22:23追記---
ここに言う幻想はあくまで静的スタティックな関係性(共同性)から育まれるものですよね?
ならば、動的ダイナミックな関係性(対他者性)から詩や諸表現幻想?が生まれるのでは、と思いました。ゝ
- 黒髪 
面白かったです。
鏡の使い方によって、三種の幻想が生まれるのでしょうか。言葉でさえも、本当は鏡を使っているだけのように思えます。
そう思えてしまうことは、少し腹立たしく、恐れさえも感じますが。
また、なぜ幻想の中に囚われてしまうのか、そこで尽きるのかということが、難しい問題だと思いました。自由というのは、素晴らしい人間の至宝ですね。
- 花形新次 
- パン☆どら 

三つの心の在り方ですが、当方は多面性と呼んでおります。占星術なんかでは似たような考え方が出てきます。

禁制論については、幼児体験における心理学的な影響につて考察するのが良いと思います。例えば、男女の差異は赤ん坊のころに両親を見て学んでいるので、例えばスカートの件は幼少のころどこかで「男はスカートをはかない」と学んでいるはずです。それを学んだ時の記憶は失われても、学んだ結果は残るので、人は自然とそのような反応になります。

猫の件について。
脳科学者はおそらく「科学」の分野なので、「意識」というものの存在を肯定していません。そういう意味で、心理学とも違います(心理学は科学の範疇ではないとされているようです)。
ちょっと難しい話になりますが、科学すなわち唯物主義(科学は実証可能であるものしか肯定しない、その基盤が物質=質量)と形而上主義が対立した時代がありました。どちらが正しいのか議論が行われたらしいですが、決着はつかず。しかしその後の科学の成果が甚だ大きかったので、唯物主義の主張が正しいと信じるものが多くなったのだと思われます。これは正しい判断ではなく、ポワンカレの「科学と仮説」に書かれてあるように科学の基盤はあくまでも「仮説」であってそれ以上のものではありません。
たとえば、「科学は証明可能なものを扱う」→「証明不可のものは扱わない」のが正しい態度であって、「証明不可能なものを否定する」のは、前提条件と定めたものを真理と勘違いする行為になります。要するに、科学は「心の作用」は専門外であるという事実を無視して、「心など存在しない」といっているようなもの。(心に質量を認めない限り、それは物質ではなく、物質ではないことは扱わない、というより扱えない)
でも、この指摘をするときっと彼らは怒ると思いますけどね。

ネズミの話は「イメージを呼び出す」作用に関係していて、意識は脳が作り出すイメージ像を常に修正しながらそれを常にモニターしており・・・以下略。

最後に、言いたいことは大体わかりましたが、言葉の定義や考え方のスタンスが違っているので、自分なりに翻訳作業を入れました。微妙に違いがあるかもしれません。

- アラガイs 

臨死体験者と実際に宇宙空間から地球を眺めみた飛行士は何故か同じように神の存在を取り上げる。この意識下に於いては相対する二つの認識がいつもこの神の存在で被さるのです。物理学では量子論が世界を席巻しているので我々は必死に素粒子を追いかけている。巨額な資金を投じて新たにハイパーなる巨大なカミをカンデを建設する予定らしい。果たしてどこまで追いかけられるのか。
興味深く読ませてもらいましたが、結局我々の眼に見える世界、同じく認識する世界には限界があるといういうこと。理工系でもあったの吉本がこのように解くのはおもしろい。また読ませてくだされ。
---2020/01/18 01:49追記---
- 帆場蔵人 
 
作者より:
ひだかたけしさん お読み下さりありがとうございます。
詩や小説などの表現がどのようなプロセスで生まれたかということですが
なかなかにむつかしい問題ですね。でも、これもいずれ
雑ですがじぶんの勝手な解釈というか想像を投稿してみたいとおもいますが
これは非常にむつかしいです。頭の悪いわたしの手に負えないかもしれませんが
珍妙な解釈となじられようと、しょうしょうずれてはいるものの共同幻想論の
一環として語らせていただきたいとおもっております。

黒髪さん お読み下さりありがとうございます。
人間というのはまさしく謎ですね。だから面白いのでしょうが、岸田秀が
『唯幻論』で語ったように人間はだれもが生まれつき自然に対しては狂った
存在であるということに尽きるとおもわれます。
鏡というような比喩の仕方はまだまだ、理解が及ばず、こなれてないのですが、
いまのところこれがわたしの限界です。
 
葉山美玖さん お読みくださりありがとうございます。
葉山さんにもう一度、おもしろかったと言ってもらいたかったのですが、
むつかしかったと評価されることは、書き手のわたしがまだまだちゃんと
共同幻想というものを理解できてないということです。
う~ん、ざんねん。次回がんばります。
 
花形新次さん お読みくださりありがとうございます。
 
パン☆どらさん お読みくださりありがとうございます。
脳科学では実体のないものを学問の対象にできないというのはなるほどとおもわれます。
茂木なんかは「クオリア」なんていってますが、これは要するに人間の感性のことです。
芸術的な感性も「ほら、これだよ」といって実体をつかんでみせることはできませんが
風にゆれる木々のように、木々がゆれることで風というものを人に感じさせる。
こころとはそういうものだとおもっております。

アラガイさん お読み下さりありがとうございます。宇宙にとびだした飛行士が地球を
みて神の存在を考えるのは、おそらく心理的な距離の問題だとおもいます。
人は孤独になればなるほど「観察者」の立場になり、リアルな人間関係に齟齬をきたす
反面、人間社会を冷静な視線で眺められるようになる。
じつは社会批評や社会評論のようなことをする立場の人は実際の生活の現場で日々、
追い立てられるようなことでは、社会がみえなくるのですから、ほんとうは、批評家や
評論家は「ひきこもり」のように、ある程度社会から離れた存在でないと社会批評な
んじゃないかとおもっております。
きょうびの批評家がだめなのは社会と距離を置けてないからです。
宇宙飛行士がとつぜん大気圏外にとびだして孤独を感じるとき、神の目線になることは
よくわかる話です。

帆場蔵人さん いつもお読みくださりありがとうございます。

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