エゴ・エリスⅠ いのちある すべてのものに 主は 食物を 恵まれる/PAULA0125
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- トビラ 
こんにちは。
田中修子さんつながりで、PAULA0125さんのことを一方的にちょっとだけ知ってます。
それはそれとして、少し思ったのですが、叙情詩とありますが、どちらかというと、叙事詩に近いのかなと思いました。

この作品においては、
>そこに在るもの ただ神のみ
>我らはまさに 今神の中に居る
というところが肝になるように感じるのですが、なんというか、情報として私たちが神の中にいるというのは伝わるのですが、情感としてあまり伝わってこないように感じました。
以前、僕が「極北を見た」というタイトルで詩を書いたのですが、「極北を見た感じがしない」とコメントをいただいたことがあったんですよね。それと、ちょっと似てるかなと思いました。
独特な世界観と言葉づかいは面白いと思うので、ポイントを入れさせていただきました。
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- AB(なかほど)
すみません。気になってしまったので。
苦菜はロメインレタスに限定しないほうがいいのではないでしょうか。
失礼しました。
 
作者より:
トビラさま
おねーさんのお知り合いの方でしたか! 光栄でございます。
ふうむ、ご指摘の場所は信者にしか分からないものなのかな…。叙情詩と叙事詩というのは、相方とも結構論争したのですが、「出来事を淡々と語るのが叙事詩、感情を淡々と語るのが叙情詩」という古典英文学の教授のご意見を採用しました。全体的に詩編と雅歌とを取り入れたので、情がある方だと思いました。………。他の聖書の箇所が淡々としすぎてて、そう見えただけなのかしら? 貴重なご意見ありがとうございます!

AB(なかほど)さま
この詩を書いたとき、一番最新の情報では、聖書に出てくる「苦菜」っていうのが、現在のロメインレタスであるという説があったのです。その後に「水菜説」が出ました。私は「苦菜」って、セロリとかの香の物とかだと思っていたので、それだとイメージの差がありすぎると思いましたので、ルビを振りました。ちょっと私個人の経験がでしゃばったかもです。

孤蓬さま
いつも一番のコメントありがとうございます。
ここは多分、ミサ次第の日本語だからですかね。信仰告白の一部に、「十字架にかけられて死に、黄泉に下り、三日目に復活し」と区切る場所があるのですが、これ、意味としては、「十字架にかけられた事によって死んだので黄泉にくだった」ではなく、「十字架にかけられて、その後死んで、その後黄泉に下った」なのです。この辺りの違いは孤蓬さまなら一目でお分かりですよね!
なのでここも、「行った、その後渡した」なので、破綻はしていないです。ですがわかりにくいのは確かですね。むむ、どうしようかな、少し修正を考えます。

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