振り向くのは、さよならの時に/森田拓也
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- st 
傑作ぞろいですね。
- 由木名緒美 
風と擦れ違うのかぁ
いいなぁ
皮膚を刺し 飛び去る蚊は 血に我宿し

なんか即興で書いてみた!
昨日三匹も蚊を叩いたよ。
なんだか切ない気持ちです笑
- ひだかたけし 
微細な物事の描写
ですね♪
- こたきひろし 
- あおいみつる 
- レタレタ19 
- 未有花 
- るるりら 
次回も お笑いは、あると いいなあ。嬉しいなあ。と、おもいました。
- 石村 
- ヘタレ 
川柳風が増えてきたのは良いことです。早く面白詩も再開してください。期待!
---2019/06/21 10:29追記---
兄貴!詩も俳句も同じだぜ!
俺は先日、松尾芭蕉がポエム詩誌ニ投稿している夢をみたぜ!
- 朝焼彩茜色 
- 長崎螢太 
- 渡辺亘 
- 帆場蔵人 
- 千代弦 
- 空丸 
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- 孤蓬
今回も月並調が目立ちます。
誰かが既に使ったような手垢のついた趣向が目立ちます。
蝶と草の句、白鷺の句、子雷の句、虹の二句など特に。
絵文字も、感心しません。

>夏帽子写真の中に忘れ来て
「忘れ来て」という言回しは変です。
本来、接続助詞「て」を伴い、「忘れて来て」とすべきところ、五音の定型に合わせるために、無理やり接続助詞「て」を外したものでしょうか。
或いは、「忘れて来て」だと口語脈の表現になるので、「忘れ来て」だと文語風になると勘違いなさったのでしょうか。

>風鈴を鳴らさん風とすれ違ふ
今自分を過ぎた風があちら(風の行く方向)にある風鈴をならすだろうという句でしょうか。
誰もが発想するような趣向で、月並な印象です。

>ダリの絵の蟻こぼれたり額の外
これも、ダリの絵から誰もが抱くような月並な感想を述べただけの印象です。

>夕立晴ばれ「クララ立ちつ!」とハイジ湧く
「立ちつ」とありますが、「立ちぬ」が適当でしょう。
大野晋らによれば、完了の助動詞「つ」は、作為的な動作に用いられ、「ぬ」は自然推移的とされます。
クララが立ったのは、作為的なものではなく、クララの脚が自然に治癒していたことの結果として起こったことですから、自然推移的なものと言えるでしょう。
また、小田勝は、「ぬ」は変化の実現と説明しており、この観点からも、クララの脚が治ったという変化の実現を表現するものとして「立ちぬ」が適当です。

---2019/06/15 11:12追記---
>接続助詞の「て」は、僕は句を現代風にしたい時に、切れ字として使う
二つ、大きな誤解をなさっているように思います。
接続助詞「て」は、上代以前の古語にも用いられている助詞であり、これを使うことで現代風になるというのは誤りです。
私が申したのは、「忘れて来て」という言回しは口語脈だということです。

また、切字とは、文法的にそこで切れる付属語を指します。
一方、接続助詞は、「接続」とあるようにそこで切れるどころか、接続する、つまり、この助詞の前と後とをつなぐ役割を持ちます。
すなわち、接続助詞「て」を切字に用いるなどというのは、まったくあべこべの認識と言わざるを得ません。

なお、完了の助詞「つ」と「ぬ」については、貴コメント中に言及がありませんが、どのようにお考えなのかお聞かせいただければ幸いです。

---2019/06/16 07:48追記---
>完了の助動詞「つ」「ぬ」なのですが、僕の認識は単純に、ただ、
>人為的なもの=「つ」、自然現象的なもの=「ぬ」、
>という使い分けだけです。
>それ以上は、難しくは考えていません。

自分に都合の良いように、古典文法を解釈し、恣意的に用いるのは、本来の言葉を歪める傲岸不遜の態度にも見えます。

関谷浩『古文解釈の方法』は、大学受験用の参考書のようですが、この参考書から森田拓也さんは、次の解説を引用されています。

>②「つ」は動作的・故意的であり、「ぬ」は状態的・自然的である。

クララが立ったというのは、たしかに動作的ではありますが、故意的なものとは言えないでしょう。
なぜなら、クララが車椅子生活をしていたのは、クララの意思によるものではなく、クララの脚が機能しなかったためです。
クララは故意的に立たなかったのではなく、立てなかったのです。
厳密に言うと、脚の物理的機能で立てないというよりも、クララの精神的なところから、立てなかったとも考えられますが、いずれにしても、クララにとっては、立ちたくても立てなかったのです。
クララが立ったのも、近付く牛が怖くて思わず立ち上がったという、偶然的、ハプニング的なものであり、故意的なものではありません。
〈参照〉↓
https://www.nicovideo.jp/watch/sm17064363

クララが立ったというのは、クララの脚(或いは、心理)が立てる状態まで治癒したという状態的・自然的なものです。

また、同参考書から次の解説も森田拓也さんは引用なさっています。

>④「つ」には行動的・意欲的性格が強く、「ぬ」には凝視的・詠嘆的な性格が強い。

先も申したとおり、クララは牛に驚いて立ったのであり、行動的・意欲的なものではありません。
また、ハイジの「クララが立った」という発語は詠嘆的です。

すなわち、関谷浩の参考書の解説からも、「立ちつ」よりも「立ちぬ」が適当ということが裏付けられます。

次に、「て」の切字的用法について、森田拓也さんは、復本一郎『俳句実践講義』から次のとおり引用されています。

>比較的最近の俳句においては、この「て」を切字として接極的に用いる傾向があるようです。現代俳句において新しく誕生した切字と言ってもよいように思えます。子規や虚子は、このような「て」の使い方はほとんどしていません。虚子の弟子たちの時代になってしきりに用いられるようになったのです

ここであるのも、接続助詞「て」の本来の日本語としての性質に対する解説ではなく、単に現代俳人が恣意的に接続助詞「て」を切字として用いているという現象を述べているものです。
現代俳人や現代歌人の悪弊として、定型による音数制限等に無理やり合わせるために、日本語の本来の意味や用法を捻じ曲げる傾向があります。
例えば、「老い」(老人の意)「幼(をさな)」(幼児の意)など、現代歌人による恣意的な造語は、個人的に非常にいやらしく思われます。

また、蛇笏、万太郎、久女などの句が例として挙げられていますが、いずれも接続助詞「て」における切れの効果は弱いです。
それもそのはずで、接続助詞「て」における、その後に言葉を続ける日本語としての性質は変えようがありません。

切れとは本来、連歌、俳諧の発句において「言切る」ことが良しとされた伝統によるもので、順徳天皇の歌論『八雲御抄』の「発句者必可言切(発句は必ず言切るべし)」などが嚆矢とされます。
接続助詞は、そこで言切ってはおらず、下に接続しているため、どうしても切れが弱くなります。

森田拓也さんが引用された正木ゆう子の句ですが、

>しづかなる水は沈みて/夏の暮

中七の「て」以降に接続すべき言葉は句中では省略されており、「夏の暮」という景色を下五にはめ込んでいますが、「て」以降の言葉が省略されているため、それが言外のイメージを様々に鑑賞者に髣髴させるため、「言切るべし」という本来の趣旨からは離れたものとなっています。

---2019/06/17 18:44追記---
>ただ、僕は、クララが“自分の力強い意志で立った”としたかったわけです。
>観察者であるハイジやペーターよりも、クララの立つという自律的な自己意志の方が、
>僕には強かったであろうと感じたからです。
>なので「つ」を選択しました。
先日のコメントで述べた通り、事実としては、クララは牛に驚いて思わず立ったのです。
〈参照〉↓
https://www.nicovideo.jp/watch/sm17064363
「クララが“自分の力強い意志で立った”としたかった」とおっしゃるのは、アニメのストーリーを恣意的に枉げてしまうことになるのではないでしょうか。

また、先日のコメントでは言及し忘れましたが、森田拓也さんが引用された関谷浩の説明にはこうも記されています。

>①「つ」は他動詞に接続し、「ぬ」は自動詞に接続する。

「立つ」は紛れもなく自動詞であり、このことからも、「立ちつ」ではなく「立ちぬ」の方が適当であるという私の主張が補強されます。

それから、以前にも説明しましたが、作為か無作為か、意志的か無意志的か、人為的か自然かというのは、「つ」「ぬ」が接続する動詞にそのような傾向が窺われるというものであって、助動詞である「つ」や「ぬ」自体に、意志的か無意志的かなどというニュアンスが含まれるということでは、決してありません。
また、意志的、人為的な動作にもかかわらず「ぬ」が使われたり、無意志的、自然的な動作にもかかわらず「つ」が使われたりという例外も多いのです。

私がこう↓申したことを、お忘れでしょうか?
>「愛づ」という動詞に「つ」を付ければ「意志的に愛でた、というニュアンス」になり、「愛づ」という動詞に「ぬ」を付ければ「自然に愛でた、というニュアンス」になるとの理解は、完全な誤りです。
https://po-m.com/forum/pointview.php?did=347100

同様に、「立つ」という動詞に助動詞「つ」を付ければ自律的な自己意志で立ったことになり、「ぬ」を付ければ自然に無作為に立ったことになるというものでは、決してないのです。

文法の上っ面をつまみ食いして、理解したつもりになり、自分の都合の良いように恣意的に文法を歪めるのは、いかがなものかと思います。

>切れ字の問題なのですが、「ーァ」「ーィ」「ーゥ」「ーェ」「ーォ」の
>どの母音が一番、句切れを誘発する力が強いのかは、僕はとことん研究したいです。
森田拓也さんのご説明を読みましたが、残念ながら、全く科学的な根拠が認められません。
ただ単に、森田拓也さんのごく個人的、主観的、恣意的な印象が、述べられているだけのように見受けられます。
率直に申して、無茶苦茶なご説明です。

森田拓也さんの主観をおっしゃったところで、音韻論にはなりません。

>音韻論とか、もう、俳句を越えて、ソシュールとかの専門の領域になると思うので
勘違いなさっているようですが、音韻論はソシュールの後に出てきたものであり、ソシュールの研究は記号論的なものです。

いずれにせよ、確たる根拠なく、物事の因果を主観的にこじつけることは、研究とは言いません。

客観的態度で、証拠となり得る数々の例を集め、それを論理的に整理して、科学的にアプローチすることが、研究なのです。
 
作者より:
stさん

おはようございます
読んで下さって、どうもありがとうございます
stさん、題名を詩的にしたかったのですが、
思い浮かばなかったです、残念(笑)

孤蓬さん

おはようございます
読んで下さって、どうもありがとうございます
一番、風鈴の句の意味を、理解していただけて良かったです!
「む(ん)」は意味も多いみたいですし・・・。
今、助動詞同士の接続が難しいです。
孤蓬さんのように、助動詞同士を長く繋げて句を詠める様になりたいです。
接続助詞の「て」は、僕は句を現代風にしたい時に、切れ字として使うのですが、
たしかに、語数合わせの感があります。
絵文字は、読んで下さった方を、笑わす、作戦です(笑)

由木名緒美さん

おはようございます
読んで下さって、どうもありがとうございます
由木さん、体調は大丈夫か?
俳句は、風とか、影とか、自然現象に表現を逃げたら、それらしくなるねん(笑)

おっ!

 皮膚を刺し 飛び去る蚊は血に 我宿し

由木さん、やるやんけ!
自らの血を、蚊が我を宿す、と表現するとは!
表現の飛躍というか、発想が詩的で、読み手に対しての説得力がありますね。
蚊が血で我を宿す、という表現をされたのは、珍しくて、ユニークな発想ですね♪

ひだかたけしさん

おはようございます
読んで下さって、どうもありがとうございます
ひだかさん、相変わらずの、僕の月並み調の句です(笑)
こういう、感情的な句から、抜け出さないといけないのだけど・・・。
夏蝶の二句は、少し自分でも気に入っています。

こたきひろしさん

おはようございます
読んで下さって、どうもありがとうございます

あおいみつるさん

おはようございます
読んで下さって、どうもありがとうございます

---2019/06/16 03:56追記---

孤蓬さん

おはようございます
完了の助動詞「つ」「ぬ」なのですが、僕の認識は単純に、ただ、
人為的なもの=「つ」、自然現象的なもの=「ぬ」、
という使い分けだけです。
それ以上は、難しくは考えていません。

僕では分からないので、関谷 浩先生の『古文解釈の方法』から引用しますね。

 ※

以下p66より

「つ」と「ぬ」は異なる語であるが、文中での職能は似通っている。「石投げつ」に対して「花咲きぬ」となるような例を基にして、古来言われているその差を簡単にあげてみる。

 ①「つ」は他動詞に接続し、「ぬ」は自動詞に接続する。
 ②「つ」は動作的・故意的であり、「ぬ」は状態的・自然的である。
 ③「つ」は有意性の動作を表す場合に用い、「ぬ」は無意志性の動作を表す場合に用いる。
 ④「つ」には行動的・意欲的性格が強く、「ぬ」には凝視的・詠嘆的な性格が強い。
 ⑤「つ」は事実状態の直写に用いられ、「ぬ」は傍観的説明に用いられる。

などがあるが、どれか一説だけで割り切れるものではなく、また実例においてあてはまらないこともある。

 ※

次に、接続助詞「て」の、切れ字性についてですね。

僕個人の考えなのですが、母音が「ィ」「ェ」になるものは、切れ字になれる確率が高いと考えています。

また、僕では分からないので、2冊から引用します。

 ※

『俳句の仕掛け』清水杏芽、p62より

 接続助詞は「句と句との結び目について、両句の陳述に対する表現者の認定の仕方を表す」、従って、この使用の場合により「切れ」性が有ったり無かったりする。
 例えば「して」・「て」は体言上にある場合は、一つの条件を示すものとして「切れ」性が存在する。しかし、下に用言の場合は「切れ」性はない。

 ※

↑つまり、

「~て/人が歩く」(「て」の下が体言=切れる)

「~て歩く人」(「て」の下が用言=切れない)

ってことかな?

次は、2冊目の『俳句実践講義』復本一郎、p161より

 ※

「て」です。もちろん「十八の切字」の中には入っていませんし、その他の切字の中にも「て」などという切字はありません。接続助詞です。一般的な用法としては、

 牛立ちて二三歩あるく短き日

 褄とりて独り静に羽子をつく

等の句に見える「て」であります。二句とも虚子の句です。ところが比較的最近の俳句においては、この「て」を切字として接極的に用いる傾向があるようです。現代俳句において新しく誕生した切字と言ってもよいように思えます。子規や虚子は、このような「て」の使い方はほとんどしていません。虚子の弟子たちの時代になってしきりに用いられるようになったのです(幕末の蒼虬の句にも、例えば<人ひとり田中にたちて/けさの秋>のように「て」を切字としての句がすでに見られますが、多用されるようになったのは、やはり現代俳句においてでありましょう)。左のごとき作品です。

 帯の上の乳にこだはりて/扇さす    飯田蛇笏

 獺の灯をぬすまれて/明易き   久保田万太郎

 谺して/山ほととぎすほしいまま    杉田久女

 端居して/ただ居る父の恐ろしき    高野素十

 藤垂れて/この世のものの老婆佇つ    三橋鷹女

 いずれの作品も「て」で一度切れて、予期せぬ世界が展開していることがおわかりいただけると思います。先の虚子の二句における「て」とは明らかに違いますね。仮に新切字と呼んでおきましょう。この「て」なら、皆さん大いに活用できそうですね。試みに昭和二十七年(一九五二)生まれの現在活躍中の俳人正木ゆう子の句集『静かな水』(春秋社、平成十四年)を繙いてみますと、このような「て」を用いた作品が少なくありません。その中から四句ほど挙げてみます。

 祝はれて/近々とある百合の蕊

 しづかなる水は沈みて/夏の暮

 色鳥を見て/屑籠をからつぽに

 鶲来て/白墨のちひさき木箱

 いずれの句の「て」も、虚子句の<牛立ちて二三歩あるく短き日><褄とりて独り静に羽子をつく>における「て」のようには、下にスムーズに繋がっていきませんね。「て」で切れているからです。「て」によって各々の作品が完結性や二重構造性や意味性を獲得しているのです。今日の俳句においては、この「て」を切字としてよいのではないでしょうか。

 ※

↑こっちの引用も、たぶん、

 ~て/人走る(「て」の下に体言=句が切れる)

 ~て走る人(「て」の下に用言=句が切れない)

っていうことのように、思います。

 ※

レタレタ19さん

おはようございます
読んで下さって、どうもありがとうございます

---2019/06/17 03:39追記---

孤蓬さん

おはようございます

僕も、クララが立ったことを、ハイジが見た瞬間の「詠嘆的」というお考えに賛成です。
たしかに、その観点から観ると、「立ちぬ」でしょうね。
そして、「」という会話文的な表記から、「クララ立つた!」と、とするべきかもしれない。
ただ、僕は、クララが“自分の力強い意志で立った”としたかったわけです。
観察者であるハイジやペーターよりも、クララの立つという自律的な自己意志の方が、
僕には強かったであろうと感じたからです。
なので「つ」を選択しました。

あと、切れ字の問題なのですが、「ーァ」「ーィ」「ーゥ」「ーェ」「ーォ」の
どの母音が一番、句切れを誘発する力が強いのかは、僕はとことん研究したいです。
音韻論とか、もう、俳句を越えて、ソシュールとかの専門の領域になると思うので、
あくまでも俳句の領域の中でですけどね。

今、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」について考えています。

この句を切ると、

 古池や/蛙飛び込む水の音

ですよね?

やっぱり切字の「や」が強く機能していると。

この句を「や」以外で切れないだろうか?

母音から考慮した場合、切れ字「や」の代わりに「に」「へ」「の」ぐらいか・・・

 古池に/蛙飛び込む水の音 (「に」で小切れ・・・、いや、結構、大切れか?))

 古池へ/蛙飛び込む水の音  (「へ」で大切れとも、小切れとも考えられるような・・・)

 古池の/蛙飛び込む水の音  (これは「の」で、たぶん小切れ)

もっと分解して、平仮名で考えるとどうだろう?
ちょっと考えてみます。

 ふるいけやかはづとびこむみづのおと

これを、自分なりに切ってみます。

母音が「-ァ」で切るとどうだろう?

 ふるいけや/か/は/づとびこむみづのおと

次は、母音「-ィ」も

 ふるい/けや/か/は/づとび/こむみ/づのおと

次は、母音「-ゥ」も

 ふ/る/い/けや/か/は/づ/とび/こむ/み/づ/のおと

次は、母音「-ェ」も

 ふ/る/い/け/や/か/は/づ/とび/こむ/み/づ/のおと

次は、母音「-ォ」も

 ふ/る/い/け/や/か/は/づ/と/び/こ/む/み/づ/の/お/と/

切字として「や」の部分が一番、句切れが強いけど、音韻論的には、
単音単位では、全部、切れるか・・・。

難しいな・・・。

ただ、この母音、すべてに大小の句切れの力があるという考え方あたりに、
松尾芭蕉さんの「切字に用ひる時は、四十八字皆切字也。用ひざる時は、一字も切字なし」という切字論に近い考えなのかな?と考えています。

---2019/06/18 03:13追記---

未有花さん

おはようございます
読んで下さって、どうもありがとうございます

るるりらさん

おはようございます
読んで下さって、どうもありがとうございます
お笑いの句は、自分でも結構、笑ってしまう時があり、
きっと自分自身の句の、表現の幅を広げるのに必要なんじゃないかなって、
思っています。
まあ、スベリ芸ですけど(笑)
そして、絵文字も・・・、ねっ!

---2019/06/18 03:23追記---

孤蓬さん

おはようございます
やっぱり、僕の当面の課題は、助動詞の使い方、特に「つ」「ぬ」あたりですね。
他動詞と、自動詞も、難しいな・・・。
以前、孤蓬さんに教えていただいて、それ以降、辞書の他動詞と自動詞の表記を
見る様になったんですけどね(笑)
誰か、近くに古典文法を専門に教えて下さる人がいれば良いのですが、
でも、まあ、しばらくは独学しかない・・・。
俳諧とか、「~てけり」で面白い使われ方をしている句を見付けました。

 飛螢闇の長橋かけてけり    作者不詳

 玉川の浪かけてけり衣更   曉臺

↑この「~てけり」の使い方は、かっこいいと思います。

---2019/06/19 08:32追記---

石村さん

おはようございます
読んで下さって、どうもありがとうございます

---2019/06/20 21:23追記---

いきりさん

こんばんは
読んで下さって、どうもありがとうございます
川柳風ってことは、お笑い系に走り過ぎと!(笑)
詩集は、全部、この間、古本屋さんに売ってしもた・・・。
数千冊、詩集を売ったよ。
貴重な、限定詩集も売ったよ。
その金で、俳句の本を買いまくって、今、部屋に俳句の本しか無いねんw
詩には、もう、戻らへんと思うわ、たぶん(笑)

朝焼彩茜色さん

こんばんは
読んで下さって、どうもありがとうございます

長崎螢太さん

こんばんは
読んで下さって、どうもありがとうございます

---2019/06/21 14:43追記---

いきりさん

こんにちは!
たしかに、詩も俳句も、垣根は無いよな!
詩集は、5冊だけ、まだ本棚に残してあるよ。
中村光太郎さん、っていう方の詩集が4冊と、
井上靖全集の第1巻の全詩集な。
5冊とも、光太郎さんの、お母さんから
いただいた光太郎さんの形見でな。
まあ、また、詩も書いてみるわな!
芭蕉ポエムか〜!
シュールな夢でんがな!💯

---2019/06/22 09:03追記---

渡辺亘さん

おはようございます
読んで下さって、どうもありがとうございます

帆場蔵人さん

おはようございます
読んで下さって、どうもありがとうございます

---2019/07/01 00:49追記---

千代弦さん

こんばんは
読んで下さって、どうもありがとうございます

---2019/09/02 12:00追記---

空丸さん

こんにちは
読んで下さって、どうもありがとうございます

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