パブリックアートとしての現代詩/腰国改修
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- るるりら 
おはようございます。
パブリックアートをどのようなものとして捉えるかによって、パブリックアートとしての詩はあり得ているかどうかの回答は 違ってきます。

紙に書いた詩が駅の掲示板か何かに貼り付けられているかといえば、「紙」というモノを駅に貼るのは多くがなにかしらの宣伝であり、詩人の企画展などのお知らせとして駅が許可した場合は、貼られると思いますが、お尋ねの件とは 違いそうですね。

「石碑に文字を刻み込んで詩が設置されているとか。数多いる詩人の中でパブリックアートとしての現代詩を成立させた人はいるのだろうか?」この質問も、現代詩とはなにかによると思われます。たとえば、金子みすゞの詩編は 長門市仙崎において巨大なアート作品も含めて多数のパブリックアートといえそうな作品が多数置かれていると聞いています。みすゞ以外にも著名な作家はそのご当地で石碑に文字を刻み込んで詩が設置されています。 ですが、金子みすゞをはじめ著名な故人の作家の方々は、現代詩人では 無いといわれればそれまでです。これもお尋ねの件とは違いますね。

故人ではなく現代を生きている詩人が おおやけの場に自作詩を置くという例でしたら、私の友人が病院や学校の待合室に 自作詩を自身で製本して置いたと聞いたことがあります。その作品と空間、生活を共にする共有者と話し合いを重ね、作者とその作品を受け入れる側が納得したのだと思われます。日本では、どこかで商業的な旨みや何らかの宣伝やその他メリットがなければ、日本では成立しがたいと思います。
わたしの友人が自作詩集を待合室に置いた例にしても なにかしらの「その他メリット」があるから病院や学校が詩集を置いたのだと思います。たとえば、心がなごむとか創造力がかきたてられるとか。なにかしらの益がないと パブリックな場では成立しないと思われます。

では、日本以外の場所では、成立するのでしょうか?
【TED日本語 - エル・シード: 希望と平和を訴えるストリートアート】で検索していただければ、詩文(古典的詩文)をパブリックアートとしている例かもしれません。
該当の作品群の置かれた地域の方は、このアートを賛美しているそうです。しかし、詩文は宗教的な文言みたいですし、これもお尋ねの件とは違いそうです。
- 足立らどみ 
面白い考察ですね。
文字という意味では、新宿警察署の裏交差点のLOVEは有名ですが、現代詩とかですよね。
絵画や彫刻と違って芸術の側面以外に理解を深めていく過程も含め要求されるものだから、あっても、別もの、違う表現のように思います。
漫画や小説が映画化するときと似ていると感じますね。

- ぽりせつ 
以下の文は、あくまで私の芸術観を前提としたコメントです。

>詩作品そのものが、
>パブリックアートとして存在する風景は考えられるだろうか?

充分に考えられます。「公」を意図しなかった既存の詩を
大衆の前に持ってくれば良いのですから。

しかし、
「『パブリックアートとしての詩』は作成可能か」
ということでしたら不可能だと思われます。
少なくとも「人間」には。

芸術とは、自己の中で能動的に働く意思が
客体を持たない時に成り立つ行為、と言えます。

「公」ならびに「依頼主の要望」を
自己の能動意思を阻害しない状況下に落とし込む事ができても、
そこには「見られる」という前提があり必然的に客体が現れてしまいます。

客体を持つ芸術はあり得ず、
よって「パブリックアートとしての詩の作成」は不可能という事になります。

ただ、強いて挙げるなら「社会性を維持したヘンリー・ダーガー」なら、
彼は画家ですが可能かもしれません。
- ペペロ 
 
作者より:
休息さん、ポイントと素敵な情報ありがとうございます。
---2018/11/14 10:05追記---
るるりらさん、ポイント、大変貴重なご意見ありがとうございます。おっしゃる通りで、パブリックアートとは?現代詩とは?など、もう少しよく考えてアップすればよかったと考えています。色々ありがとうございます。個人的には今後もパブリックアートとは?現代詩とは?などなど拙いながらも研究して行こうかと思っていますので、また機会があれば宜しくお願い致します。
---2018/11/17 20:56追記---
らどみさん、ありがとうございます。新宿警察署の裏交差点のLOVE。なるほど。ラブは単語ですけど、一種の現代詩の一部のような気がします。軽いような重いようなラブ。と、その他色々書こうかと思いましたが、上手く文章に出来ないかなあ。

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