作者より:
吉岡ペペロ 様
この詩論に目を留めて下さり、ポイントまで、誠に有難うございます。
詩は、情緒の穴である。このようなことは、大分前から発言していたのですが、今回このように文章にしたのはそういえば初めてだったと、文章にしてから、気づいた私は、すごく間抜けだなぁとこれを書いたときに思ったのです。文章にしてから、そういう風に自分を振り返るってことが私にはありすぎるような気がしていて、駄目だなぁと自分を省みてばかりです。情緒の穴ということを考え始める以前は、別の詩論を軸に私は発言をしていました。情緒の穴という発言は、岡潔さんの随筆に影響されて、です。岡潔さんの人柄(特に声)に惹きつけられて、情緒というものを意識するようになりました。情緒の穴であるという詩論の前の詩論の軸は(ただの個人的な)詩は個性を最も重要視する。というものでした。情緒などというものはその当時は意識になくて、(技巧的であったとしても)個性が何よりも大事だみたいな軸です。どちらかというと、心よりも、表現に傾倒していました。情緒に意識を奪われる前は、趣味の為に詩を書くことに対して、受け入れられない自分も居たり、すごく不安定でした。安定し始めたのは、そういったものを受け入れ始めたからだと思います。(この辺りどうでも良いことですよね、すみません)なんでこのような話をしているのかよくわからなくなってきました。すみません。
詩は、情緒の穴である。という詩論ですが、詩の世界を豊かにするのは、やはり、人の受け留める心にあると私は、思いますし、皆様も、そう思われる方ばかりだと思うのです。だから、今更なことなのかもしれませんが、自分は、そういったものに気づくことが出来ない時期があったこともあって、このことを重く受け留めようと思います。
詩を書くとき、詩の言葉を受けとめる方々は、自分以外にも存在するかもしれないという気づきは、きっと詩の世界を広げることに繋がると思います。それは、受けとめる方々の受け止め方がそれぞれ異なっているからこそ成し得る世界であって、広がりであると思います。だから、この詩論も、もし、この詩論が好きだと仰られる方がいらっしゃるのなら、様々な受け取り方で、この世界を広げていただきたいと願います。
詩の受けとめる心の世界が広くより広く広がりますように。
今回此方に来て下さり、本当に有難うございます。嬉しかったです。失礼致します。
---2016/12/31 21:53追記---
白島 真 様
この詩論に目を留めて下さり、ポイントまで、誠に有難うございます。
>知性と感性を兼ね備えて再登場って感じがしました。
>これなら「散文詩」としての投稿でも良かったかも。
>素晴らしい!
白島 真様に、いっぱい褒めていただけて、赤面で、照れて大変です。とても嬉しいです。有難うございます。手放しで褒めてくださっているようで、言葉が上手く出なくなりますが、嬉しいので、お礼をきちんと言わなければと思います。有難うございます。
心を詩に留めるって考え方は、素直にそう主張出来ない場所や、自分の心があり、この詩論を書けるようになるまで、寄り道もしてしまったけれど、最終的に、私はこのような考え方が私の素直な考え方なのです。って言えるようになれて、私は、自分がとても素直に受け入れられる軸を持てたから嬉しいと思います。今まで、詩の軸を個性に置いてみたりして、苦しんだ時期もあったのですが、詩の勉強は私には不十分ですし、駄目な部分も沢山あるのだと思います。詩を趣味として置くことも、それって生産的とは言えないのではないかしら、って随分葛藤していた時期もありました。でも、今、言葉を綴ることが趣味で何が悪いのって、言えることが素直に嬉しく感じます。言葉をもう少し自由に使いこなせるようになって、悩んでいた頃していたように心を無視して、技巧的に言葉を追うのではなく、心を伝える言葉を模索するという形で、日常に溶け込んだ、心を言葉として綴るということを趣味におけることに対して、私は嬉しく思います。どのような形であっても、自らの気持ちを寸分違わず言葉に出来るのなら、私には、それは間違い無く喜びです。そんな発見や、美しいものを美しいと思える言葉のままで綴れる喜びは、心の震えだから、一瞬のその心の震えを形にして、人に伝えることがいずれは、詩以外の日常でも、生きてくるのだろうと思います。詩も日常も、言葉でつながるのなら、心も詩も日常もきっと関連しているのだろうと思います。
今回、こちらに来て下さり、本当に有難うございます。嬉しかったです。失礼致します。
---2016/12/31 22:38追記---
るるりら 様
この詩論に目を留めて下さり、ポイントまで、誠に有難うございます。
この詩論をこんなに気に入ってくださる方がいらっしゃったことに、私は、びっくりして、とても嬉しく感じています。少しだけ、その詩論はおかしいとご指摘を受けるかもしれないと思っていたので、皆様が受け入れて下さったような気がして、なんだかほっとしたことを覚えています。るるりら様も、この詩論、気に入ってくださったのかなって、嬉しいです。有難うございます。心を軸に、詩を綴ることが良くないと言われる場所ではこのようなことを大きな声では言えなかった時期があり、私がおかしいのかと、悩んだ時期もあったけれど、私はやっぱり、表現をする根底には、人の心があると思います。1920年代のダダイスムの集まりで生まれたトリスタン・ツァラのカットアップで生まれた帽子の中の言葉であっても、素材自体は、人の心に伝えようとして生まれた言葉なのだから、その音の連なりにはやはり意味があると思います。口承によってのみ受け継がれてきたアイヌ語が、一時期、アイヌ語継承者が10人しか居なくなり、消滅してしまいそうな言語となりそうだったとき、音と意味を記録しようとした方々が居たこと、大正時代にアイヌ自身がラテン文字などを用いてアイヌ語を書き残したのが始めで、今、アイヌ語がまだ残り続けていることも。言葉から始まった文字を幾ら、文字のみ切り離そうとしたところで、文字は音声を基に起こしたものなのだから、意味は残るものなのだと思います。声が先か、言葉が先かの論になりそうだけれど、でも、心を表現しようとして、声が生まれ、言葉が生まれ、言葉を表現しようとして、文字が生まれたのなら、その言葉を扱ってきた人の歴史が、言葉に意味を与えているとも思います。何を言いたいのか帰着点を見失いました。すみません。
こちらに来て下さり、本当に有難うございます。嬉しかったです。失礼致します。
---2016/12/31 22:41追記---
蛾兆ボルカ 様
この詩論に目を留めて下さり、ポイントまで、誠に有難うございます。
>興味深い詩論でした。
>穴というものは、ある存在を、その存在からはみ出したものに変容するような気がしま>す。ドーナツには、あんパンにない何かがあるように。
素敵なお言葉を誠に有難うございます。
興味深いと言っていただけて、本当に本当にとても、嬉しいです。
『穴というものは、ある存在を、その存在からはみ出したものに変容するような気がします。ドーナツには、あんパンにない何かがあるように』
なんて素敵な着眼点なのだろうと、目が輝く思いがします。わくわくします。確かに、穴ってそんな感じです。私が情緒の穴だと軸を持ったとき、そこにイメージする穴は、どちらかというと、ワームホールのようなイメージだったのです。でもそれは、先が見えない果てしなさ過ぎて、少し穴というよりも永久に感じていたのですが(通り抜ける前に消滅しそうな果てしない感じです)、穴というものは、ある存在をその存在からはみ出したものに変容するような気がするという、蛾兆ボルカ様のお言葉を目にしたとき、一気にまた世界が広がったような気がしました。素敵です。なにか通り抜けたとき変容するものは確かにあっておかしくないですし、それに、穴を通り抜けるなんて、大事件だもの、おおごとだわ。その先にあるものは、きっとまた違う発見を見せてくれるものなのかも知れないですし、そうであってほしいなぁって思いました。まるで異次元空間です。愉しいです。この詩論には、この穴を通り抜けた先が書いていないのですが、それは、作者である自分が想像出来なかった想像の限界っちゅうことです。是非是非、この先をこの詩論が気に入ったって思われた方がもしいらっしゃるのなら、想像してもっともっとこの世界を広げて欲しいなぁって思います。変容するって、もしかしたらそういうことですか……?そうだとしたら、穴のこちらがわの方もあちらがわの方もどちらも幸せかもって思います。
今回、こちらに来て下さり本当に有難うございます。嬉しかったです。失礼致します。
---2016/12/31 22:54追記---
ひだかたけし 様
この詩論に目を留めて下さり、ポイントまで、誠に有難うございます。
>詩の言葉、表現は
>音 と 意味 の
>間を揺れ動く
>って、
>誰か言ってたことの僕なりのかいしゃく
素敵なお言葉を誠に有難うございます。
『詩の言葉、表現は、音と意味の間を揺れ動く』なにかとても、神秘的な繊細な、どこか硬質なやわらかなそんな波のようなものをイメージしました。
この詩論を書こうと思ったとき、書いているとき、私のイメージの中では、とても愉しい気持ちが溢れていたから、言葉を綴ることは、やっぱり喜びなのかなと思います。ちいさなちいさな喜びなのかもしれないけれど、それでも、そのちいさなものが、おおきな動くことの意味になったりするから、ちいさくたって、ちょっと侮れない。そんな気がします。言葉や表現は、音や意味の間を揺れ動く、かぁ、素敵です。まるで、緩やかな言葉と表現の中の音と意味の間を揺れ動くダンスみたい。何がダンスをしているのかって言ったら、それはきっと、心だと思います。
たとえば、星のきらめきに心を揺らめかせるのは人の意識で、たとえば、海の暗さに心を怯えさせるのは人の怖れだから
自然を観ている内に自然と身に付いたもの、社会を営む上で自然と身に付いたもの、なにかに感応する心は人が意識して初めて生まれるものだから、
心は、その言葉の表現と音と意味の間を柔らかくゆらぎ続けるのかなと思いました。
今回、こちらに来て下さり、本当に有難うございます。嬉しかったです。失礼致します。
---2016/12/31 23:06追記---
小林螢太 様
この詩論に目を留めて下さり、ポイントまで、誠に有難うございます。
この詩論に書いた詩のゆらぎや、ハーモニー、詩の生は、きっと感応の先にあるというのは、私が、本当に実感として思うことで、それがとても美しいと思うから、やっぱり、詩は、心が必要なのだと思います。言葉を綴るとき、心の状態は切り離せないもので、単純に相関関係にあるというものでも無いのかもしれないけれど、それでも、心と言葉は影響し合いながら、形を作るのだと思います。人間関係や、考え方、真っ白い紙に文字を置く、そのようなことにまで、全ては、複雑に絡み合って繋がっているから、だからこそ、書くことは面白いと思います。感応することで常に変化し続けるもの、それが書かれた言葉であっても、うけとめ方次第でいくらでも変化する世界、それらは、すごくつかみどころがないようで、感応すると簡単に掴めてしまいそうでもある、そんな世界なのだと思います。私たちが詩を書くとき、詩を受けとるとき、詩ではなくとも、言葉を受けとるとき、その言葉にきちんと心を込めていたい、そんな風にも思います。言葉に心をのせて、伝える為に、言葉を使うことに、そこにはやっぱり、喜びがあると思います。
今回、こちらに来て下さり、本当に有難うございます。嬉しかったです。失礼致します。