昼も夜も 星空の下/まどろむ海月
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 月乃助 
-  
(〝唯幻論〝なんてのもありましたが、人間も、それ以外のどうぶつさんにしても、そもそもぼくたちの知覚という枠グミ自体が逃れがたく〝ファンタジー〝ですよね。。そして重要なのは〝ファンタジー〝抜きには、ぼくたちは世界を知ることができないとゆーこと。
たとえば初夏の晴れた日、緑あふれる美しい公園(といっても人工的な自然ですが)にぼくとミツバチさんがいたとして、太陽からサンサンと地上に降り注ぐ日射(電磁波)の内の、人間の可視光領域と、ミツバチや昆虫のそれはビミョーにズレている(多くの昆虫の視覚は比較的長めの紫外線領域の光に対応している)から、少なくともぼくとミツバチの見る景色(色世界)はまるで違っているでしょう(樹木の梢や若葉の色、花壇に咲き乱れる可憐な花々ひとつひとつの色も違う、、違う、とゆーよりも、おそらくそれは人知を超えている)。。
でも、そのときぼくが見ている公園とミツバチの見ている公園の景色のどっちが正しいというわけでもなく、しいてゆえばどちらも正しくどちらもファンタジーであり、えと、てかふつう〝ファンタジー〝てゆうとなんか〝物語〝とか〝妄想〝的なニュアンスまで入ってきますが、、べつにそれは〝夢〝や〝マボロシ〝とゆうわけでもなく、しかしそもそもぼくもミツバチさんも他のどうぶつも〝ファンタジー(極論すれば、とてもシンプルなものからフクザツな脳のよなものまで含む神経系によって構築されたもの)なしにはおそらく世界を存在させることができない(〝世界〝は、種の、、そして生き物の数だけ存在する)。
さておき。
で、人間の場合はさらに概念的な〝ファンタジー〝とゆうか、長い進化の過程でかくとくした産物ばかりでなく、けっして感知できないこと—紫外線とか、ミクロな細菌とか、放射性物質とか、ニュートリノとか、静止軌道上に浮かぶ人工衛星からの視点とか、宇宙の果てのこととか、、をテクノロジーを媒介に知覚の範囲の中に取り込んで了解したり、また、天動説とかブンガクとか宗教とか思想とか天国とか地獄のこととか、、文明や文化的環境の揺籃の中で世界観がはぐくまれてゆきますね(地球スケールで南極と北極を往還する渡り鳥キョクアジサシはしかし地動説も大航海時代も知らないでしょう)。
そして前者と後者はいずれもたぶんぼくたちの現実の世界認識と不可分に結びついていますが、後者の〝ファンタジー〝に呪縛されないこと、そして翻って〝願い〝を働きかけることで〝世界〝そのものを実現させようとすること、、それがほんとうに大切だと、そんなことをおもいました。。、、、長っ。。)
---2012/12/02 10:25追記---
 
作者より:
読んでいただき、ありがとうございます。
久々の新作で、推敲は重ねたつもりですが・・

月乃さん、ありがとうございました。

 ツさん、ありがとうございました。ずいぶんめんどくさい詩を、しっかり読んでいただき、全き論評をいただいてしまったので、大変嬉しく何も付け加えることはありません。 まあ、万葉の時代の長歌と反歌という構造を下敷きとしてみたところが、今回の新しい工夫ではありました。残りはそれぐらいです。
 いつもありがとう。
 (なかなか、無関心と無気力のたこつぼの中から出られず、安眠をむさぼっています)

---2012/12/02 19:59追記---

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