「がんばるな、ひとよ」(3331 Arts Ciyodaにて2011.4.3に/白糸雅樹
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 森の猫 
がんばるな!v
- プランタン 
東北に住んでいる者です。「がんばろう東北」を肯定的に見ています。ある意見として。
交換価値としての言葉をいま呟くと、非常に多角に反射します。ここでも、ですね。
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- 小野 一縷

身近な問題とはいえ、感情的になりすぎました。
問題を誇張・拡大した私のコメントは
乱暴な言葉、というより、もう言葉の暴力ですね。
自分が恥ずかしいです。

今、少し冷静になってみて、反省しています。
白糸さんの心をとても傷付けたことと思います。

お詫び致します。
申し訳ありませんでした。

これから、お互いに出来る範囲のことを
着実に、こなしていきましょう。
結局、それしかないのですよね。

本当にすみませんでした。

今、お書きになっている散文はもちろん投稿して下さい。
その際、私のコメントを引用・レスするのも構いません。

消してしまいましたが、私はコピーしています。
必要でありましたら、ご連絡下されば
また、記入致しますので。

---2011/04/09 16:23追記---
- 深水遊脚
 頑張らなければどうにもならない状況があって、それでも人間は強くないから、ささやかな幸せも噛み締めたい。時にはハメを外したい。そんな欲求を代弁する何かは必要と思います。だから、考え方の違いはあってもこうしたパフォーマンスが行われることそれ自体は否定しちゃいけないと思います。
 今回でたような批判は、たとえその内容が何であれ目に見えて被災者の役に立っていない(ように見える)ならば向けられる反感でしょう。でも、何が役に立つかなんて分かりません。本当に八方塞がりの苦境で思わぬことが深く心に染みたり、行き詰まりを解決するきっかけになったりします。目に見えてどうという判断は、人の噂話に似ています。それは何かを否定する根拠としてはあまり強くありません。正当性がないとはいいませんし、世間の常識によって守られるものも多いです。でも、詩を書くような人達は、そうした世間の常識から守られない、噂話の刃(やいば)を突き付けられる人々のことに思いを巡らせる人達ではなかったでしょうか。

(パフォーマンスの内容がイメージできなかったので、こちらに書きます。自己満足の是非に話は行きましたが、そこまで抽象化してしまうのとは別に、実は自己満足ではない可能性を考えてもよいのではないかと思い、これを書きました)
 
作者より:
小野 一縷さん、貴重な反論のコメントをありがとうございます。お返事が長くなりそうなので、あらためて、後日、独立した散文の文章として書かせていただきたいと思いますので、しばらくお待ちください。アップいたしましたら、こちらで、一言、お知らせいたします。
---2011/04/10 01:23追記---
小野 一縷さん、コメントの差し替え、たしかに受け取りました。遅くなりまして申し訳なかったのですが、差し替え前のコメントに触発された散文、ようやく書き上げてアップしました。またしても小野さんやまた他の方々の心を傷つけてしまうのではないかと心配なのですが、私にはこうしか書けない、というものを書き上げました。

主旨は、差し替えられた現在のコメントをいただく前に構想していたものですので、少々乱暴な意見になっていることと思います。丁寧な、修正のコメントをいただいた後に発表するのは恥ずかしいのですが、貴重な機会ですので、書かせていただきました。

小野さんの、削除なされたコメントは、それはそれで、同様の心情を持たれた方の救いになると思いますので、小野さんの納得のいく形で、何か書いてくださると、問題が多面から見られて嬉しいです。(強要は致しませんが。)

土屋 怜さん、!v

プランタンさん、そうですね。「がんばろう」で励まされることもあるのですよね。言葉を発するのは難しいです。ありがとうございます。

訂正履歴:
タイトルが長すぎ正しく表示されなかったので本文への表記に訂正。11-4-5 0:03

戻る Home
コメント更新ログ