暑い中、最近詩について思ったことなど/……とある蛙
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 恋月 ぴの 
- 鵜飼千代子 
「読み手を選ぶ」っていうのは、文意とは違うけれどあると思うな。
たとえば、クラッシックを5分聞いていられない人、この人も聞き手のひとりと含
めて意見を聞いた場合、「眠るのにぴったりだった。2時間ぐっすり眠れた」なん
て評が、いの一番に周知のこととなるような環境であれば、「聞き手を選ぶ」っ
て、クラッシック好きな人は言いたくなるだろうなと思う。

「選ぶ」というくらいだから、「好評」も「高評」も「悪評」も「低評」も他にもいろい
ろ、色々な「読み手」の忌憚のない意見を聞いたり読んだりしたいですよね。
「現代詩」というくくりは、広すぎるかもしれないけれど、ひとりの詩人でも、詩で
も。

そうしたところでやっと、「読み手を選びますよね。その意見を最初に聞いて、
鵜呑みにしていれば、その後、自分はどう思うか考えないかもしれない。」など
という意見も出てくるかな。

色々と、わたしも考えなくちゃいけないことの柱が立っていて勉強になりました。
詩評を書いてみたいと思っているのですが、批評も批評家も嫌いなので、嫌い
なことはなかなか手が付かず、まとまらなくてしばらくあちこち手探りの様子です。

---2010/08/17 10:27追記---
>聴衆のなかには
というところ、そういう音楽趣向の方がそのまま詩の世界にスライドしている詩
の知人関係はあると思います。聴衆を読者に変えたらそのまんまのような。「高
尚な趣味」だから、「音楽や詩歌を楽しんでいる」という人たちだと思います。
宴会でも、流行歌なんかもってのほか。せいぜいシャンソンです。

そこで、またちょっと関係のない話をしますが、上のような趣向性は狭いなと思
うのですが(蛙さんの仰る通り、普遍性や芸術性と関係がない)、そういう趣向
を持っている人がすなわちカラオケにいくような人を断ずるかというと、それも
ひとそれぞれであったりします。「カラオケくらい行ったことがないと、人の前で
話をするのは失礼ですよ。」と助言をするような人まで出てくる。(クラッシック
を聞いて寝てしまう人の逆バージョンになりそうですが)

そんな風に自分の書いた文章に注釈を入れて行くと、だんだん長くなって何を
書きたかった文章なのかわからなくなってしまいます。「読み手を選ぶ」は、頭
ではなく、このことが書かれている部分の決めのひとことで持って来た方が締
まるでしょうか。

また色々考えてみます。

- 吉岡ペペロ 
- 大村 浩一 
- 渡 ひろこ 
- 西日 茜 
 
作者より:
蛾兆ボルカ さん ポイントありがとうございます。
緑川 ぴの さん ポイントありがとうございます。
鵜飼千代子 さん コメント・ポイントありがとうございます。
藍沢コウ さん ポイントありがとうございます。
る さん コメント・ポイントありがとうございます。
木拾人 さん コメント・ポイントありがとうございます。
Xiao さん ポイントありがとうございます。

この散文ラフなので、結構異論があると思っていましたが、意外と少ない(あまり読まれていないのかも知れません。)ことには少し驚きました。
私の定期的な発作みたいなものですが(笑)。

反詩的とは、旧来の詩の約束事を無視したという意味で使われています。anti-poet 非詩的なとは違う意味で使っているので矛盾を感じていませんでした。少し私の書き方が不親切だったと思います。

つまり、題材その他 詩的とかそうでないかということ自体事無視していますから矛盾していません。

音楽家は聴衆を選んでいません。これは120%言えます。仮に音楽家が聴衆を選んでいるなどと公言している とすれば 自分の程度の低い事についての悔し紛れです。

聴衆のなかには自分がいかにも高級なモノを趣味としている高級な人間だと言わんがために聴衆に区別をつけようとしている人がいます。あまり程度の良くない聴衆です。そのような人はおそらく自分のお好きな音楽しか認めないというような狭小な精神の持ち主が多いと思います。おそらく小澤征爾や武満徹がビートルズのサージャントペッパーズを絶賛したのを聞いて、ビートルズはよいと言い出すような人たちです。おそらく、ジミヘンのエレクトリックレディランドやディランの良さは分かろうとしない人たちです。

クラシックであろうとなんであろうと好きなものは好き、何の知識が無くともモーツアルトのクラリネット協奏曲やレクイエムはすばらしいと感じますし、ドボルザークの弦楽四重奏曲アメリカは素晴らしいと感じます。

キュビズムの知識が無くとも、ピカソの泣く女やゲルニカがただものでないことは感じられると思います。

良いものについて眠いあるいは何も感じないというのは感性の問題ですから仕方が無いと思います。作品を創造する人が作成時に受け手を選ぶなどと言うことはあり得ません。特定の人の注文で特定の人のために作成するものは受け手を選ぶという問題とは別の問題です。)。

※言わば好き嫌いの問題で芸術の普遍性とは無関係です。

 今の詩に関する批評の方法論が確立されていないことこそ問題なのかも知れませんが。学校の感想文のようです。一文引用して、そこが素晴らしい(好き)という方式が多いですね。感想だという自覚があればよいのですが、批評だと思って書いていたらして大いなる誤解かも知れません。

 思いつきの文章なので、一つの考えるきっかけとして捉えて頂ければ幸甚です。メモですから、中身自体いまだ練れてませんけど。
 来年の批評祭くらいまでにはまとめようかと思っています(笑)。
---2010/08/22 22:34追記---
吉岡ペペロ さん ポイントありがとうございます。
大村 浩一 さん ポイントありがとうございます。
羽根 さん ポイントありがとうございます。
野の花ほかけ さん コメント・ポイントありがとうございます。
>頑張りましょう!

がんばりましょう。無理しない程度に(笑)。
渡 ひろこ さん ポイントありがとうございます。
西日 茜 さん ポイントありがとうございます。

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