詩が沈黙する時/岡部淳太郎
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 合歓木 
詩に対する真摯な姿勢に共感します。たかがし詩、されど詩です。
「一行の詩があればわたしは生きられる」わたしが若かったころ書いたことのある言葉です。
- 相田 九龍 
- こしごえ 
- KETIPA 
- ふるる 
読んで思いましたことを。
詩が分かる人、分からない人、という分けがこの世にはあって、分かる人は、教えられなくても分かってしまう。多分、「普通の言語」ではあらわせない「何か」を見てしまった人、死や孤独の深い深い穴を覗き込んでしまった人は、(それを知らずにすんでいる大多数の)「普通の言語」や「普通の人々」との深い溝や違いを感じながら生きることをしなければならず、その救いの一つが、「詩という言語」なのかもしれない、と思いました。それが必要でない人にとっては、詩は宇宙人の言葉のように思えるかもしれません。宇宙人の言葉で、いくら分かりやすい日常の言葉をしゃべっても、そのあらわそうとするところはやはり、理解されないのかも。
誰でも、いつ詩が必要になる時がくるか分からないから、詩は存在し続け、人々を救い続けなければならない、と思います。
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- ……とある蛙
 出発点において同じ状況認識を持ちながら、この読後感の悪さ、居心地の悪さは何ででしょうか。スルーしようと思ったのですが……
 もちろん結論においては全く同意できませんが、普通反対の意見でも読後感がこのように悪くはならないはずなのですが。
 結論に関して言えば普通に社会生活をおくっている人間が詩を書くことが現代詩の停滞の一因のような言説は全く理解に苦しみます。特に私などのように道楽で詩を書く人間には看過できません。
それはさておき、読後感の悪さは詩の成立の歴史的経緯などうなずける論述がありながら、結論との関係が飛躍しているからではないでしょうか。本来理由付けとすべき詩の本質論も納得は出来ないだけではなく突然現れては消えているようで決論とどう関係するのか理解し難いからかも知れません。少し飛躍があるようなのでもう一文ほしかったと思います。

なお、
(詩の本質に関して)
まず言語定義のあいまいさがあります。
言語は言葉を中心とした伝達機能の体系であって、両方同一文章の中で使用する場合、言葉自体とは区別すべきですが、十分区別できていないので理解しにくいと思います。
 「詩という言語」ということはだれが言い出したのか分かりませんが非常にあいまいな物言いで、矛盾した印象を受けます。いかにもエクスキューズ満載の詩人が言いそうなことですが、詩を言語としながら伝達機能を否定するのは矛盾した印象を与えます。

誤解を恐れず言えば
詩は言語ではなく、それ自体言葉及び言葉のもつ意味的機能を媒介とした関係性を素材とした創作物で文芸です。
 普通に、今、詩は徹底はしていませんが、言語の伝達機能を捨てた形での芸術であることを、サルトルを初め、日本でも入江康夫などが 論じております。
 つまり、彫刻かが石や木を素材として芸術作品を創造するように、言葉と言葉のもつ関係性とを素材として芸術作品を作るのが試作であると考えられています。そういう意味では詩人は技術者的要素を多分に有するものです。
つまり、この文章は問題提起と結論は一致しますが、理由付として論じられるべき詩の本質論が結論と一致しないのです。

 また、僕の考えを述べさせて頂ければ、
 詩とは単なる独り言ではないのです。そこには読者という鑑賞する者が想定され、それを無視しては詩自体が成立しません。
 アレンギンズバークは「主観的真実は客観化されることによって初めて詩として成立する。」としています。まさにその通りだと思います。
 大衆受けする必要はありません。が、それと同時に あまり個人的感懐ばかり述べたような詩や詩の中の話者と作者が同一であるような詩は 詩以外の要素で読むしかなく いかがなものかと思います。
 少し長文にわたり失礼と思いましたが、書かせて頂きました。お許し下さい。

 
作者より:
批評祭用に書いたものの余り。
批評というよりもエッセイなので外した。

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