死の冷たさについての素描/岡部淳太郎
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 北村 守通 
- 伊藤透雪 
私も父と祖母を亡くし、死の絶望の先を見ました。
父の胸は温かいのに、足の先は既に固く冷たかった。意識はないのに暴れたそうです。

祖母は臨終を看取りましたが、意識のない祖母の心臓は、6度戻りました。凄まじい生死の境目を見て、死の恐ろしさと、平等を知りました。

死の間際まで、生きようとするのが人間の自然であることも。

絶対性という言葉にも、実感として理解できました。

ありがとうございました。
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- るるりら
死は すべての生の 核のところに 必ず どかんと腰を据えているものです。しかし、それを知覚しているかどうか その知覚の度合いは 人それぞれです。私も 大変近しい身内を何人かに先に逝かれて 死のもつ絶対性に うちふるえた経験はあります。ただ 人に向けて「氏ね」という語を 発する人が かならずしも 死の体験がすくないかどうかは その本人を深く知らないと解らぬことです。比べてしまう気持ちは解らなくはないけれど、あなたより 死の体験の多い人物である可能性もゼロではない。
 世の中には、死にたいと口にしておられる方が 多くいますが、私には その語が「生きたい」と同意語に聞こえます。生と死は 表裏一体のワンセットだからです。
そんな私には「氏ね」と言った人物の語も 私には 「おまえは生き続けるよ」と同意語だと 私の耳には届いてしまう。(対話が絶たれてしまったが あなたは生きつづけることだろう。)と、私の耳には 届いてしまうのです。
 わたしは こう生きたいというアプローチをしてみようと思いました。あなたの生きているよという詩や言葉も楽しみにしているところです。

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