「何故人を殺してはならないの?」−「存在の彼方へ」を読んでみる5/もぐもぐ
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- チャオ 
古典哲学は、人と、ものとの距離があまりに遠すぎたために、主観性から遠のき、客観性を求めていた。そうすることで、世界を語ることができるのだと。そこで定められた定義、究極に僕はカントの世界観があると思う。音楽で言うなら、きっとバッハみたいなものだろう。そして、小説で言うなら、スタンダール。形式に納めようとする哲学から、次第に心を表そうとする哲学へと変換されていった。そのはじめの一歩がハイデガーだと僕は思っています。
そこkら、再び、世界は膨張した思想へと向かうのだろう。音楽や、小説のように、自由にそれらの極点を目指し、思考は繰り返されていくのだろうと思う。
 
作者より:
>ボルカさん

かなり先取りして雑な形で「近さ」概念を出してしまったので、実際のところ結構問題ありの書き方をしてしまったのですが、「他者の前で」「立ち止まる(忍耐する)」というようなファクターが、レヴィナス的な「責任」の大きな要素をなしていることは確かだと思っています。
レヴィナスは、「他者」を、自らの意に反して(好き嫌いに関わらず)「誘惑」するものと捉えています。「他者」は「私」に対して「絶対的自由」を持っており、私はそれに「真摯に応えようとする」形になります。ここに「意思」のファクターは入っていない辺りがかなり難解なのですが、「兄弟関係」等の語をレヴィナスが繰り返し持ち出しているように、「利害を離れた」関係の純粋なあり方(社会性そのもの)を析出しようとしていることには間違いありません。その意味でレヴィナスの論考は、確かに「同人」等の考察にも参考になりうるかもしれません。

>チャオさん

超越論的な主観性から、世界内存在へ、という道行ですが、レヴィナスもこのハイデガーが切り開いた枠組みの内外で考察を進めていることは間違いありません。「存在の意味」が、「自己の生」という利害に過ぎないのか、それとも「他者」への「応答」(「責任」)であるのか、レヴィナスはその地点でハイデガーと対立します。けれども社会秩序の必要性も認めており、こうして析出された「責任」を根拠に社会秩序の意味も回復(若しくは再構築)しようとします。
国家権力等に代表される圧倒的な社会秩序、勿論これはホッブズが構想したように、人間の「生」を最大限に保証するための「機械」であったことに間違いはありません。けれどもその意味は、ホッブズとは異なり、自己の利害からではなく、「他者」への「責任」の観点から捉えなおさなければならない。レヴィナスは、人間の「社会性」とは、「利害」である以前に「責任」であることを語り続けようとしているように思います。

戻る Home
コメント更新ログ