『過夏幻影』 より抜粋 (二十句)/ま のすけ
ま のすけさんのコメント
>「あめんばう」は、まだ修正中でした。ゴメンナサイ。

>風舐める火蛾なき夜の虫媒花
  これはこれであってるよ。(微笑)
  あなたのため、先に書いておこうかと思ったけど、よしておいた。

>擬薬や病棟に夏闌けてゆく
  ここは、そもそも「プラセボ」って入れてしまったくらいだから…。
  文語にするなら「病棟の偽薬めく夏闌けゆきぬ」くらいなんでしょうね。
  でも、ここも詩として、自分ではこの形を通します。 アリガトウ。

>《死を背く》は、格助詞「を」の少し古い使い方。

  意図は別として、お目通し頂きアリガトウ。
---2010/07/10 20:38追記---
 口語でも「なき」は用いられるという意味で…。
 キミの指摘も、もちろん、あっているさ。それは否定しない。
---2010/07/10 20:43追記---
 「を」と「に」との混用が様々なケースで認められるということ。
 特に「に」の前に、場所などを除いた「名詞句」が来る場合、
 「を」との混用が発生するということ。

 あなたの指摘が、助詞ではなく、「背く」という語の取り得るベクトルについての
 否定なら、「倫を背く」「倫に背く」の両方が用いられることを考えてもらえれば
 良いのだろうね。
---2010/07/10 22:23追記---
 んっ? 用例なら、いろいろ在るんじゃないですか。
 漢文の読み下しは、結構「〜を背く(叛く)」のカタチが出てるはずだし。
 どうぞ、お手持ちの文献で確認されて下さい。
 別な用例なら「世を背く」=隠遁する、などでも使うハズ。
 「私の辞書にないから、そんな用例はアリマセン」みたいな反論はNGに願います。

 前のやり取りも、あまり有効的とは思えないやり取りで、相当ココ使ってたからね。

 それと、アナタの用いる「文語」が、どこ(どの時代)に基底を置いているのかなど、
 先に、確定しておいてもらわなければならないだろうしね。

 でも、根本的な感覚として、(あくまで感覚ですが)、「文法は、実際の言語より遅れて
 発生している」という点と、同時に「一つの文法だけで、人の使用する言語を例外なく
 網羅できるものなどない」という点の認識が、アナタの中に薄いような気がしています。
 社会階層や地域が異なれば、当然使用している言語も異なっている訳だからねぇ…。

 文法なんて、後から作ったものだし、そこで用いられる用語や、過去の用例なども、
 文献の発見などでどんどん増えていく、つまり時間とともに解釈自体も変遷して行く
 ものだという部分での共通認識がなければ、そこで拡げた論は、双方の徒労に終わる
 可能性が高いと危惧しているのだけれど…。

 一方で、「国語審議会のような一意的な言語の固定化には反対」と言いながら、他方では、
 アナタの拠り所としている一つの文法ルールで、他者の表現を「善」「悪」二分する
 ような書き込みが、そこここに目立っている…。(もちろん本当に相手や作品への愛情
 に端を発しているケースもあるのだろうが、その多くは自身が目立たんがため、あるいは
 そこに、単に何らかの存在意義を見出しているに過ぎないとも映って見える)
 その辺りの、賤しさや自己顕示欲の強さが感じられれば、本当にアナタと論を持ち寄り、
 建設的な何かが生み出せるかという点で、こちらに大きな疑問が残る。

 「俳句」など、式目などへの個別の理解では、疎さや脆さも見えているし…。

 できれば、双方(もちろんコチラについても)、謙虚な気持ちで、相手を認めつつ、
 様々な知識を持ち寄っての日本語についての学究が出来るというのなら、この先の
 話も進められると感じるのだろうが…。

 今のままの、キミでは厭です。

 作品は作品で、とても魅力的なものもあるのですがね。
---2010/07/10 23:10追記---
 アラ、先に書いておられたんですね。 遅くなり申し訳ない。

 「を」「に」について、付記すれば、
 「に」の用法で、終着点を表すものについては「を」と混用するものではなく、
 どちらかと言えば「へ」と。
 意味の上で「〜に端を発する」のような、動作行動の始点範囲を表すケースや、
 孤蓬さんの調べたように動作の対象を確認するケースにおいて、「に」は「を」との
 間での揺らぎが発生するものと考えられます。

 俳句などは、季語の斡旋と同様、推敲の段階で、助詞の変化(入換え)によって俳句
 たらしめる手法があるので、その揺らぎを上手に使うことで、俳句の膨らみが形成
 できるのです。

  例) 父の日の父も揺れたる終電車
    父の日の父が揺れたる終電車
    父の日の父は揺れたる終電車
    父の日に父の揺れたる終電車
    父の日を父は揺れたる終電車
     ※即詠なので、出来についてはご勘弁を
      (もちろん自動詞⇔他動詞の変換なども用いるに越したことはないが…)
---2010/07/10 23:32追記---
---2010/07/10 23:52追記---
 う〜〜ん、ご自身の行状をさしおいて、こちらがどう見ているかを述べたら
 《人格攻撃》ですか・・。頭痛いなぁ・・。

 まず、『複数の国語学者の一般論』ここが怪しいものです。
 言語のエッジについてまでを規定出来るだけの論のすり合わせは、どこでいつ誰に
 よってなされたのでしょう。 ・・国語審議会? あっそ。(呆レ)

 明確なエッジまで規定出来るというのでしたら、その一覧を出して御覧なさいな。

 私は、いくつかの立場や目的で俳句や詩歌を書いています。
 その中には「あたらしい言語を創っていく」というものもあります。
 オノマトペや、複合語、あるいは先行して生み出された新語を俳句などへ登用する
 ことで、均して行ったり、広めたりと、そんなことも考えて詩歌を編んでいます。

 孤蓬クンのように、ダメ・ダメでは、新しい言語の誕生や、言語の成長にはあまり
 プラスにはならないでしょうね。
 褒めるべきは褒め、あるいはしっかりと自分と言う視座において感じ得た感覚を
 チャレンジした者へと伝えていく。この姿勢でありたいと思ってます。


 まず、その立ち位置の違いは、あなたの記憶の中にしっかりと留めおいて下さい。


 「教えてくれ」に応えて「漢文の読み下し文の中にあるよ」と書いたのが《逃げ》ですか?
 ふぅ〜〜〜ん。笑止。
 上記の部分でも、勝手に「接続助詞」と置き換えて、間違いだと虚偽の主張を張ってる
 輩にも、平常の対応でと構えているのに? 人に甘えなさんな。

 『春秋左氏傳校本』や武家に残された文献等に、ご自身で当たってみて下さいな。
 自分が面倒くさがっているのを、相手が《逃げてる》とは、もう話したくもないって、
 普通ならなるでしょ?
 ネットだけで見付けようと省略してるから、見付からないんじゃないの?

 「ダウト!!」って言ってきたの君だからね。
 本来なら、君に説明責任が在る訳でしょ?
 「自分が、論戦に勝ったぞぉーー」って宣伝したいんなら、最後まで自分で努力すれば
 えぇやないですか。
 その姿勢が、本当の意味で日本語を求めていく姿勢に繋がるんだろうと思いますから、
 あとは、どうぞ自分で。

  そそっ、いつまでも「時枝万歳」でやってると、現実に追いつかなくなるよ。
  老婆心ながら・・。
 

---2010/07/11 00:24追記---
 「俳句」について疎いと感じた部分。
   <省略>についての理解の浅さ。
  「俳句」や「短歌」が、生み出してきた文語風などの<語>への受容の低さ。

 本当に文語文法に長けているのか少し疑問に思う点。
 「佐渡によこたふ天の川」の「よこたふ」はすぐ下の《天の川》に掛かるため、
 連体形で本来なら「よこたふる」が、キミのいう文法では正しいでしょうよ。
 上五「荒海や」で切れが在るから、「よこたふ」の後ろで切れることはないです。
 ここは、文法をはみ出しても韻律を重視した箇所。
 芭蕉は、もともと談林調も通って来ているから、言語に関してはどこか大胆で、かつ
 比較的ゆるやかな感覚の持ち主。
 アナタが同時代に生きてたら、「あんたのは間違ってる」って吹っかけて無視される
 んだろうね、きっと。
 でも、それはそれで好いんだよ。自分で負けないだけの龍は作っちゃえば好いん
 だから。今もそうやっちゃえばいいのにって、どこかでは思ってるよ。
 俳句はともかく短歌や長歌には、それだけの力は在るもん。(←褒め言葉)

 で、あとなんだ?
 「開けそめておのれの舌に霙落つ 孤蓬」
 ここは複合的におかしいから・・。
 まず、「そめる」ってどういう動詞よ? 「そめ」+「て」+「落つ」?
 それこそ、人にいちゃもんのごとく言っていた《時世》の感覚が乱れてるのでは?
 ・・・おっと、ここ疑問形で書くと「これでイイ」とかって言われちゃいそうだから、
 言いきっておきますね。乱れてる。乱れてます。十七音で冗長な時間の経過など
 表現するのは難しいから・・。「て」か、「落つ」か、「そめ」のどれかがおかしい
 から…。
 「開けそめて 〜落つ」こんな使い方の文献があるのなら、それこそ※△×Zno◆Hv…
 言っとくけど、「落つ」の主体は「霙」だってのは承知の上の言。

 で、こっからだ。「霙」自体がそれこそ昔は動詞だったでしょ?
 キミの立脚する文語が、大正の終りや昭和初期のコピー品でなければ、「霙落つ」
 なんて用法は出てこないんじゃないの?
 俳句なら、少し違和感は残るけどニュアンスに一番近いのは
 「開けそめておのれの舌へ霙かな」か、
 「あけそめしおのれの舌へ霙雪」あたりが素直。

 他も、一箇所在ったんじゃない? 連体形であるべきが終止形になってるとこ。
 覚えてないけど…。

 よく、それで人に「間違ってる」「失礼」なんて言ってられると思うよね。
 短歌はともかく、俳句に関しては、素人同然でしょ?
 もちろん、人より言葉を知っているとは思うけど。
 骨法の勉強は、ハッキリ足りないと思います。(断言)


 言葉がキツイと感じられたら、ゴメンナサイ。
 確かに、アナタに呆れるところは在るけど、悪意はないですから…。
 それでも、あなたの普段の行状の鏡として今回、ここまで書かせてもらいました。
 それでも、「俳句学びたいです」なんて言ってこられたら、スゴイって感じちゃう
 けどね。

  お粗末様でした。 またどこかで。
---2010/07/11 01:34追記---
 まだ続くの? 粘着質?
 高名な国語学者が論じてる《「死を背く」という使い方はナイ》という文献と
 交換でなら、教えて差し上げますよ。
 自分の手許になきゃ、図書館でも行ってくればいい。
 それで調べましたが見つかりませんとはオコガマシイデス。
   も、いいよね。 見つかっても謝る必要ないから。

 もし、ちゃんと手許に借りて来て捜してみた上で見付からなければメッセージか何か
 下さいな。
 なんで、文献に直接当たろうとしないかなぁ・・。エセ学者さんなん?
---2010/07/11 11:19追記---

  おかしな人だなぁ・・。(苦笑)
=======================================
 【論点整理】
  ●「〜を背く」の「を」はおかしい。用例があれば認める。

  ●芭蕉の句、「荒海や佐渡に横たふ天河」の句中の《横たふ》は、
   自動詞「横たふ」の連体形だ。
   ※ただし「本人」の意見ではない。句の解釈を含む本人の意見はナイ。

  ●孤蓬氏の句「開けそめておのれの舌に霙落つ」は、瑕疵のない秀句だと思う。
=======================================

 うち、2番目の芭蕉の句については、キミと論を張っても意味がないと考える。
 というか、もしコチラの論にぶが在りそうな場合、件の主張を掲げる蜂谷某氏に
 キミが迷惑を掛ける恐れがあるから、キミとはやる気はナイ。
 言葉悪いが、盲目的に「国語学者」の肩書に依存する体質が浮かんだだけである。
 ネットなどで拾ってくる意見やアイデアは、決してキミ自身の血肉ではない…。
 もちろん文献などを当たることは大切なのだが、その先にわずか1ミリであっても
 きみ自身で導き出したオリジナリティが認められなければ、キミ自身の存在価値は、
 ただ「スピーカー」としてのみだ。その自覚をもっと謙虚に持つべきではないか。
 自分が深く理解出来ていない他人の意見を使って、第三者に注意や、あるいはそれ
 以上の過干渉を行うのに、どんな意義や意味が見出せるだろう。
 誰も、キミにその様な使命を嘱託してはいないのだから、自我・私欲に基づいた
 迷惑行為は、控えるべきだろうと思う。


 さて、では1番目の●から。
 本人も『世を背く』という用例を見付けているのに、尚も過ちとしている処は、
 理解に苦しむ。『世を背く』というのは、その語だけが、孤立的に成り立っている
 言語用法だと考えているのか? だとしたら、言語についての根本的理解に欠けて
 いるのではないだろうかとも思えてくる。
 まぁ、前置きはこのくらいにしておこう。

 と、その前に読みの確認作業をしておく。
 「道行く」に助詞を加えて読む場合は、「道」と「行く」との間にどんな助詞が
 入るだろうか?

 平素の状況下では、もちろん「を」だ。
 それでは次はどうだろう。「橋架ける」「山歩く」「顔洗う」「音聞く」「花見る」。
 これは熟語ではない。また、当然、動詞の前に人物や目的格がくれば、動詞の種類に
 よって、「に」や「へ」が相応しいケースも出てくる。
 が、補語が来る場合は、当然「を」を入れることになる。

 例であれば、「橋を架ける」「山を歩く」「顔を洗う」「音を聞く」「花を見る」。
 では、『道背く』には、どうだろう。
 「道に背く」だろうか。
 という確認は、漢文の読み下しにおいて、「背道」「過於背法理」などの場合も、
 無理に読めば、全てのケースで「に」を無理やり入れてしまうことも可能だから。

 一般的に、「〜を背く」と読まれているものも、元の漢文の読みを「〜に背く」と
 無茶苦茶な主張を始めるのを防ぐためだ。

 ともあれ、「〜を背く」の使用例を見て頂こうか。
 春秋からは、申し訳ないがひいてはいない。書架の奥、下の方にあるから、それは
 許してもらいたい。キミのために、もう、かなり無駄(?)な時間を取っているのだ
 からね。いたって迷惑な話だ。(本当に教わる態度なら可愛げもあるだろうが…)

  ◆獨行道 - Dokkodo 宮本武蔵
   一、世々の道をそむく事なし

  ◆「女の道をそむいた不器用な魂ここにある」〈浄・国性爺後日〉

  ◆成山忠太夫内の段
   嘆きの音に源右衛門、目を覚まし起き上り、これも同じく酔ひ紛れ、男たる身
   の道を背く。

  ◆夜討曽我
   團三郎の台詞「これは今めかしき御諚にて候。何事にても候へ御意を背く事は
          あるまじく候」

  ◆浄瑠璃 得生院
   弘嗣承り「某は何も存ぜね共 おう爺様の 常々仰せられしは 鷹は死ね共穂を
        摘まず。鳩に三枝の礼有り。とのたまへば 鳥類さへも礼儀は背き申
        さねば 如何に幼しとても 師匠様に頼む心の有るからは 礼儀を知
        らぬは鳥類には劣りたり。仰を背くは事により候へば 此の儀におい
        ては中々かない申すまじ。畏れながらも手を引いて給はれ」とて
        なかなか負ぶさる気色は無し。

  ◆切金一條
    表の御下知を背くは不敬とは申せ、彼者先代公儀へ御用金を差出したるは、
    家の為又子孫の為にもなるべしと存じ、大切の金銀を御用立致したる次第、

  ◆萬代亀鏡録附録
    天台のいわく、謗は背なり。法度を背くほか別に謗法なし。いかでか無間に
    堕ちざらんや。云云

  ◆「栂尾明恵上人遺訓」
    人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)の七文字を持(たも)つべきなり。
    僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。乃至(ないし)帝王は
    帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきよう
    を背くゆえに一切悪しきなり。
     [↑これは原文を見てないし、揺らぎも感じられるので責任は持てない]


  さて、これだけ「〜を背く」という用例を並べれば、満足頂けるだろうか?
  自分で調べればイイだけの話なのに…。


  さて、では3番目の●について。
  今度は、キミに、明治期以前の俳句で「霙落つ」の用例を並べて頂こうか。

  しっかりした俳句の例があれば、キチンと君に謝ろうと思う。
  たとえキミが、自身の過ちに頬かむりしていたとしてもだ。
  選集などに記載のあるものであれば、和歌でも良い。見付けて来てくれないか。

  「霙」は、もともと「雨」や「雪」と違い、動詞と名詞が密接に存在していた
  語だ。千載和歌集(藤原俊成により1200年より前に編まれた)にも

   春雨にちる花見ればかきくらし《みぞれし》空のここちこそすれ/千載(春下

  に、動詞として「みぞる」の用例が見られる。
  「雨る」「雪る」とはならないので、あきらかに成りたちの異なる語である。


  キミ自身、「霙」に「降る」は使えて、「落ちる」は使えないのか? と、
  うっすら気が付いてもいるようだから、そこから先は、キミ自身の宿題とさせて
  頂く。
  『動詞「みぞる」が存在しているので、「落つ」は付かない。』
  キミが、理解出来ようが、出来まいが、私の主張はこうだ。

  また、キミが、俳句という詩型に弱いというのは、俳句に軸足を置く自分から
  ハッキリ見てとれる。
  「開けそめておのれの舌に霙落つ」

  まず、切れがない。
  ンッ? まさか一物仕立てで句の終りにあるとでもいうのではなかろうね。
  座五が、「落つる」で留っていれば「哉」の省略と、もちろんとっている。
  が、この句に関しては、「て」の後ろにうやむやな切れが隠されているくらいで、
  明確な切れが見られない。俗に言う『平成崩れ』の最たるものだ。

  この一点だけでも、厳格な結社からは「俳句ではありませんね」とオミット
  されるだろうね。

  それよりなにより、この句を見ていて気持ち悪い(個人的な主観)のは、
  変な「て」と「落つ」との繋がりだ。
  もちろん「落つ」の主格は「霙」だというのは承知の上だが、接続助詞「て」を
  不用意に(きっと明確な意識なく)用いたために、本来、詩であるべきの俳句が、
  自己顕示臭の強い「原因⇒期待していた結果」の提示になってしまっている。
  キミ自身に、厳しい鑑賞力があれば、推敲でこうはなっていない筈なのだが…。

  ただ、それはあくまで俳句の上でのことだったのだが、キミは私からの指摘を
  察知して、「開けそめる」が「明け染める」との掛け言葉だなどと言いだした。
  その姿が、とても醜いと思う。
  まぁ、俳句では和歌とは異なり、二重に言葉を掛け合わせるのはご法度に近いこと
  を知らなかった所為もあるのだろう。それは俳句の式目ではなく、川柳の世界での
  ことだから・・。
  ただ、千歩譲ってそれを認めてあげるとしても、だとしたら何故最初から、
  「あけそめて」と開いておかなかったのだろうね。
  つまりは、そんな浅薄な部分を持ちながら、皆より言葉を知っているなどと、
  とんだ勘違いを抱きつつ、他人に、誤りを指摘して歩くその姿は、自分からは、
  滑稽というレベルで収まるものではなく、迷惑というレベルへと、ゆうに、
  はみ出していると感じてしまうものだ。

  そこから先は、自身で、身を処すべきことだ。


  ただ、もし、「霙」に「落つ」「落つる」のいずれかが付いた和歌や俳句が
  見つかった場合、どうぞ連絡して下さい。

---2010/07/13 00:13追記---
  人に嫌われるでしょ? 私は、キミが嫌いです。 キミの態度がね。
  1)痛いところ指摘されて問題点をズラしていくし、
  2)自分では、
---2010/07/13 02:04追記---
  書き切れねーじゃねーかよ。 アホのために、解り易く続き書いてやってたのに。
  字数制限で、全部消えた。。。 クソッ
   『或る嫌われゐし者へ捧ぐる時間』のコメント欄にて、しばし休憩の後にUPしたる。