聖地に捧げた詩/りゅうのあくび
りゅうのあくびさんのコメント
最近、日本の政治の裏側には、宗教の影があります。そこでは、神道だけではなく仏教的な気配もただならない印象を持っています。そこでは、被爆国としての日本があると思い、世情と日米同盟との関わり合いで、詩にする言葉を見つけてみました。読んでくださりありがとうございます。
---2016/11/27 19:10追記---
宗像現象 さん
ポイントいただきありがとうございます。みみんがぁみ~ん、嬉しいです。
吉岡ペペロ さん
ポイントいただきありがとうございます。

。。。。。。。。。。。。。。。。
孤蓬 さん
コメントいただきありがとうございます。
加筆と訂正をしました。
生き字引も役に立ちますね@@

北朝鮮の核配備について、
確かに情勢気になりますね。相撃ちが一番恐怖でもあります。
日本は、国家構造の面でも
北朝鮮とは遥かに異なるシステムですね。
核武装を出来る技術が両国において
まったく違う形成をしています。
現実、日本は核技術の軍事利用を
ほとんど控えているだけですね。
政府は、一国民がどう思うかという想念やら観念の類を超えて、
安全保障面を強化しようとしています。
政府は違憲状態です。司法は機能せず、憲法裁判所を立ち上げる向きもあります。
僕の想念は、それを、
なまぬるい現実の許さざるを得ない一面として感じます。
原子爆弾で犠牲になった方を思っても、
思って済む話でもありません。

安全保障とは、そもそも何かと言う話ですが、
日本という国家が、何を持って、安全保障の手段を控えようとするのか、
それは、もちろん核技術を含めた軍事技術面だけではありません。
国家主義的な感覚に捕らわれることも、想念やら観念などの
問題とはされない場合も多くあります。
そんな自由ですら、確かにあると思われます。
しかし、そんな無関心は必ず無垢な命を奪うことにもつながります。
戦争行為の意思決定とは、
遠隔地からの意思伝達により必ず行われるからです。
ひとつの命は、他のすべての人間の命と関わり合います。
ひとりの健康が、やはり、他のすべての人間の命と関わり合うように。

想念とは、観念は明らかに異なりますが、
ここで俎上とするのは、想念の問題ではなく観念の問題です。
単純に申せば、誰しもの想いではなく、
むしろ誰しもの考えの問題です。
非日常の想いとかけ離れてもいる日常の考えは、
誰しもが共有しながら一念発起するものとも言えます。

最近は、宗教観の問題となると戦争観の問題にも波及していくご時勢です。
ニュースなどでは、特定して何処とは申し上げませんが、ほぼ、
キリストVSイスラムと言う形式での宗教戦争が
日本を取り巻く話題にも余波としても影響しています。
余り好みではありませんが、イギリス作家による小説
「悪魔の詩」の日本人翻訳者が
ここ日本でも、ほぼ暗殺されたのではないかと言う形跡さえ
残っているのも、その事件の全貌は、
ほぼ機密にされたままです。
警戒するかどうかだけの問題ではなく、
やはり宗教観の問題とも言えます。
まぁそれほど気にかけなくても、それぞれの人間は、
多くの場合、完了形として宗教観を形成しています。
このポエムでは、そんな宗教観を、どんな民族のどんな宗教でも尊重されながら、
人類史最期であるはずの被爆地でもある、長崎やら広島を、宗教的な聖地として、
祭祀を行っても良いのでは、という着想を持って書き始めてみました。
爆心地には科学とナショナリズムが起こした
最終戦争一歩手前のなれ果てが、
僅かに残っているはずと考えられるからです。

それが、これからのことであれば、との考えです。
筆がいたらずでしたが、今後も挑戦していきたいです。
と言うわけで、よろしくです。



---2016/11/27 21:59追記---

---2016/11/27 22:49追記---

---2016/12/03 19:12追記---