DEATH US NEVER DO PART/池中茉莉花
池中茉莉花さんのコメント
お読み頂きありがとうございます。
---2007/10/30 18:11追記---
> 佐々宝砂さん

丁寧なコメントをありがとうございます。

>骨だらけ
文学極道でも、「骨張った」の方がいいのでは・・・
というご指摘を受けました。
痩せて、骨ばかり目立つ手という意味だったのですが、
表現がよくなかったようです。

>ネクタイ

ここなのですが。

一応(?)、カトリックです。

臨終の儀式=「終油の秘蹟」はもちろんあるのですが、
ここでは、心電図モニターが止まってからを書いているので、
それは、とばしました。今は、「終油」といっても、助かることを
祈る儀式へと若干修正されて行われています。

黒い棺に寝かせますが、着せる服は決められていません。


実は、先日、祖父が亡くなりました。

亡くなって、御棺に入った祖父を見て、自分と同じ所に
青筋があったりするのをぼんやりながめていました。

肌がみえているのは、顔と手の甲だけ。

子どもの頃から祖父のそばで遊んでいたわたしは、靴下
の中のもりあがった不思議な爪などを思いだしていました。
もちろん、「信仰」に照らし合わせたとき、祖父の魂は
もはや主のもとにあり、体は抜け殻にすぎないのかも知れません。

でも、なんとなく、もう二度とふれることの出来ない、見ること
すらかなわない、祖父の肉体以外のものが、すべて異物に感じられました。

わたしは、孫ですから、みえないところは爪くらいしか知りません。
しかし、妻だったら、(はしたない話ですが)すべてふれて確かめて
抱きしめてあげたくなるのでは・・・と感じました。
遺体がモノではないからこそ、遺体以外のものを取り払いたい衝動
が出てくるのではないだろうか・・・。
御棺も、狭いだろうな・・・、と感じました。
それで、このような表現にしました。

>ツ反
これは、勘違いでした。
残っているのは、種痘ですね。

非常にグロテスクな部分を省いて書いたために
結果としてよく分からないものになってしまいました。

別に、死体愛とかそういうものではないのですが、
愛する人が先に逝ったとき、遺された体にすがる
思いを書いてみました。

しかし、「葬儀」という厳粛な場では、決して赦される
ことではなく、すがりついて、彼の衣服を剥がすなら、
無数の人々の制止を振り切るしか、残された道は
ないのだなぁ・・・と。
「素子」の目に入るのは、単なる手だけで、あとは死んだ彼しか見えていないのだろう
とおもい、このような誇張表現にしました。
(最初は「蛇」という比喩をつかっていたのですが、
修正しました。)


かなり、読みにくいものを書いてしまったようです。

今後は、もっと、素直に、わかりやすい文章を書けるように
努力しようと思っております。

非常に、勉強になります。
またどうぞよろしくお願い致します。
---2007/10/30 19:45追記---

---2007/11/02 10:03追記---
佐々さん、佐藤さん

申しわけございません。

ちょこちょこなおさないで、大胆に修正しようと
思っておりました。
たとえば、
>ツ反
が間違いだから、即「種痘」になおすということではなく、
まったく別の語を入れることも考え中です。



---2007/12/09 23:22追記---
>佐々さん、佐藤さん
ありがとうございました。


死について、別れについて、書くことがいかに難しいかということを改めて痛感しました。
いつか、同じテーマで書いてみたいと思っています。
---2007/12/13 18:19追記---

>古島さん

コメントありがとうございます。

確かに、死は生と不連続です。
しかしながら、死者と別れ、この世に遺されたものは、死者との関係に置いて連続性のなかで生きなくてはならない。

本当に書きたかったのはそこの所です。

自分が死ぬこと。
それは、生との断絶であり、未知の世界に突入することであると思います。
想像すらできない世界へ。

本当に死について理解するということは、不可能なのだと思います。

いただいたコメントをよく噛みしめていきたいと思います。
これからもどうぞよろしくお願い致します。