どっちにもなる気はない/ただのみきや
狩心さんのコメント
本質的に考えると「私」に選択権はない。
「私」は存在を表現するだけである。
「敵」とか「味方」とかは、その結果論で、
本質的に考えると、選択権は「他者」にある。
そうでなければ「私」の自由もないし、「他者」の自由もない。
言葉で書くと矛盾するのだけど、
「私」に決定権や選択権が本質的にあるとすると、
「私」に「自由」があるとすると、
「私」にも「他者」にも、それらは無いことになる。
つまり、自由でないことで他者が存在できるわけだが、
自由でないことが同時に自由であることになる。
重複するが、「私」は存在を表現する(証明しようとする)だけである。
そう考えると「味方」がいくら出来ようと「私」は本質的には永遠に孤独だが、
私はその孤独を「孤独」と呼ばない。
在り来たりな言葉になるが、「孤独」とは「自由」と同じ意味だし、「本質的には決して誰にも否定できない、もしくは決定できない(自分自身にも)」なわけで、できることは言わば「座標軸的な一時的な一側面的な、意味的な創出」である。
ただそれも、流動的で、生き物で、無意味であることからは逃れられない。
だから本質的には、「判断」というものはつまらない。
しかし人は「判断」しなければ生きていけない。
だからそれを「完全に否定するのは『生きるのが苦しくなる』」のと同意義である。
それは「安住の地」ではなく、「一時的なこと(意味的創出)」だと、ある種表面的に割り切っていく立場が、自然な姿勢と言える。
「敵」だとか「味方」だとかは、本質的には無意味だが、
「それをしない」ことも同様に、非、生産的な、非、効率的な行為である。
なので、結論としては「そうすること(敵だとか味方だとか)、またはそうなってしまうこと、は、仕方が無い」のである。
ただし、本質は諸行無常である。、それを『分かって居ればいい』だけのこと。
つまりこの作品に対して言えるとこは「正しいけれど正しくない、賛同できるけど賛同できない」。
つまりこの作品自体が「自己矛盾を抱えた意味的創出」に他ならない。
私も評論家であるわけではないので上手く説明できているか疑問ですが、意味不明ならスルーで構いません。
この作品を読んで思ったことを書かせて頂きました。長文失礼しました。