夏の終わりに/森田拓也
孤蓬さんのコメント
>夏蝶の街角曲がる影の濃し
下五「影の越し」とありますが、格助詞「の」が蛇足です。
格助詞によって主語を示すのは、口語文の手法です。
文語では、名詞句などにおいては格助詞が当該句の主語を示すことはあっても、文における主語を格助詞で示す手法は用いません。
したがって、「夏蝶の街角曲がる影」という名詞句内の「夏蝶」に付いた格助詞「の」は適切ですが、「影」に付いた格助詞「の」は余計ということになります。

>泳ぐ彼少年の日の我に似て
「泳ぐ彼」という言回しは口語調です。
また、句の趣向がありきたりな印象。

>最後まで語らず眠り月下美人
中七の「眠り」が何故連用形なのか、疑問です。

---2019/08/04 11:10追記---
一つ書き忘れていました。

>夕焼に椅子を立つひと影のばす
意味が曖昧な句です。
椅子から立ち上がった人が夕日に照らされて、その影が長く伸びている(夕日だから影が長くなるのは当たり前)様子を詠んでいるのだとは解りますが、それであれば、「夕焼けに」という表現は厳密には意味を外しています。
格助詞「に」ではなく、間投助詞「や」を用いて、「夕焼けや」とすれば、意味の上では納まります。

---2019/08/05 06:06追記---
>最後まで語らず眠る月下美人 (一行詩)
>
>最後まで語らず眠り/月下美人 (一応、俳句かな?)

この森田拓也氏の認識は、全く誤っています。

俳句は、上五或いは中七で切れなければならないというものではありません。
下五で切れる句もたくさんあります。

下五で切れる句の一例↓

>青柳の泥にしだるる潮干かな 芭蕉

>石工(いしきり)の鑿冷やしたる清水かな 蕪村

>鶏頭の十四五本もありぬべし 子規

>凍蝶の翅におく霜の重たさよ 虚子

そもそも、連用形にすれば句が切れるという認識自体、完全な誤りです。

---2019/08/06 20:17追記---
清水杏芽が提唱する「切レ」(片仮名の「レ」にご注意)は、俳諧や俳句における一般的な概念としての「切れ」(平仮名の「れ」にご注意)とは、少し異なるものです。

清水の「切レ」論は、当時の俳壇へのアンチテーゼとして反骨的に提唱されたものですが、今となっては、その著書のほとんどが絶版になり、彼が興した「双葉俳句会」も彼の死の前年に解散していることからも窺えるように、賛同者はあまり存在していません。

私としては、その主張の一部に首肯する部分がなくはないものの、かなり恣意的、独善的かつ奇矯な極論であり、少なくとも、何も解らない初学者が無闇に手を出すべきものとは思えません。

森田拓也氏が引用なさった、体言では切れないと主張する清水の珍説も、単なる彼の独り善がりにしか見えません。
 
>最後まで語らず眠り/月下美人 (連用形で切る)

↑このように、森田拓也氏はおっしゃいますが、連用形で切れるなどというのは、清水の奇論に毒された甚だしい勘違いに他なりません。

私からすれば、「最後まで語らず眠り月下美人」なる句は、中途半端に連用形を用いて、前後のつながりが不自然になっただけの、みょうちきりんな日本語表現がそこにあるばかり。

森田拓也氏は、清水の「切レ」論を本当に深くまで理解し、咀嚼し、自分と不可分の真の持論として体得した上で、その主張を支持されているのでしょうか?

「切れ」(平仮名の「れ」にご注意)の一般的な概念を学ぶことなく、奇矯な「切レ」論(片仮名の「レ」にご注意)を鵜呑みにして飛びついても仕方ありません。

迷論に踊らされるのではなく、まずは、基本的な「切れ」(平仮名の「れ」にご注意)の概念を学ばれる方が大切だと思います。

---2019/08/08 05:54追記---
>現代俳句では、もう、句の連用形切レは当たり前に行われています。
森田拓也氏は句中の意味の転換点を「切れ(切レ)」と捉えられているようですが、「当たり前」というほど、その認識が現代俳句において普及している訳ではありません。

例えば、メディアにもよく登場している夏井いつき氏も、森田氏のような認識を共有してはいません。
http://100nenhaiku.marukobo.com/?eid=916005

なお、森田氏は、「現代俳句では-略-当たり前」とおっしゃいますが、「現代」ではなく、例えば、蕉門においても、『去来抄』に「きれ字に用時は四十八字皆切レ字也。不用時は一字もきれじなし」とあるように、森田氏に似たような考え方も、伝統的に存在はしているのです。

いずれにせよ、夏井いつき氏などは、連用形や接続助詞「て」などを切字とは扱っていません。
森田氏のような主張が、現代俳句においても、「当たり前」ではない証左です。

ところで、森田氏が引用された次の句

>切干やいのちの限り/妻の恩    日野草城

この句の「限り」は、意味合いから、動詞の連用形ではなく、名詞と捉えるべきです。

---2019/08/09 06:01追記---
森田拓也氏が引用された句を読み返して、改めて気付いた点について補足です。

>切干やいのちの限り/妻の恩    日野草城

前回のコメントで「限り」は名詞と申しました。
そして、よくよく見るとこの句は上五の間投助詞「や」で切れています。
「限り」で切れるという森田氏の判断は誤りです。

>鶏頭の影地に倒れ/壁に立つ     林徹

この句は、壁の近くに生えている鶏頭に光が当たり、影が出来ているさまを、根元部分から花の先の部分までの、影の様子を描写した句でしょう。
根元から茎の途中までの影は地面を這いながら壁まで延び、影が壁に当たった所からは、その壁に沿って、影が鉛直上向きに花の先の部分まで立ち上がっているように見える様子が描かれていると解釈できます。
そうすると、「地に倒れ」の中七で切れているという森田氏の判断は不適切であり、中七から下五にかけての表現は、影の様子を連続的に描写していると解釈すべきです。