夏空にひとり眠る/森田拓也
孤蓬さんのコメント
今回も絵文字満載ですね。

>絵文字は、読んで下さった方を、笑わす、作戦です(笑)
先だって、森田拓也さんはこうおっしゃいましたが、絵文字で笑いなどとれません。
とれるとしても、「嗤い」や「哂い」の類でしょう。
絵文字が面白いと喜ぶ読者がいたとして、その感性はどうかと思います。

>鷺草が風に真の鷺のごと
鷺草が鷺のようだというのは当たり前です。
当たり前すぎて、月並にも至らない印象です。
句中に「鷺」の文字が二つあるのもいただけません。

>遠花火見る影ありて上見上ぐ
「上見上ぐ」の「上」は蛇足のきわみです。
「見上ぐ」と言えば、上を見ることに他なりません。

>風死して野良猫も耳すましたり
「耳すましたり」は、文語の言い回しとしてこなれていません。
そもそも「耳すます」というのは舌足らずな言い方で、本来なら格助詞「を」を用いて「耳をすます」です。
「耳をすませり」は幾らかましではありますが、もともと「耳をすます」という表現自体が口語脈です。

>枯れて尚時刻みけり時計草
時計に似ているから「時計草」なのであり、その時計になぞらえて時を刻むというのは、あまりにも当たり前すぎて、月並にも至らない印象です。

>曲終へず破れざらなん草笛よ
「破れざらなん」という言回しも、文語が使いたくてごてごてと文語っぽい言回しを並べただけというのが見え透くようで、こなれない印象です。

>梅雨雲も切れ間に一羽鳥を見す
梅雨雲の切れ間に鳥が飛んでいるさまを、梅雨雲を擬人化して、梅雨雲が鳥を見せたと表現している訳ですが、「梅雨雲も」の係助詞「も」がよく解りません。
「も」は何かに付け加える意の助詞で、「僕も行く」と言えば、誰かと一緒に、或いは、誰かと同じように自分も行くということになります。
「梅雨雲も-略-鳥を見」せるということは、梅雨雲以外にも、鳥を見せる誰かが存在することを示していますが、誰なのでしょうか?

>蓮の香や事故る宅配ドライバー
間投助詞「や」は文語ですが、「事故る」という口語との取り合わせはいかがなものかと思います。

>川に逃し掬へる金魚救ひけり
単なる「掬」うと「救」うの駄洒落ですね。
構文としても、冒頭に「川に逃がし」と持ってくるのは、日本語としてぎこちなく変です。

>色濃きや渡哲也のサングラス 
「色濃しや」とするのが文語らしい表現です。
渡哲也とサングラスというのも、当たり前すぎて、月並にも至らない印象です。

>白玉や女性経験なしの僕
文語の間投助詞と口語の一人称代名詞の取合せもいかがなものでしょうか。

---2019/06/27 05:49追記---
>「も」よりも「だに」「すら」とかの方が良かったかも知れません。
「も」「だに」「すら」は、それぞれ意味が違います。
また、「切れ間に一羽鳥を見す」という肯定文には、「だに」を用いないのが本来です。

---2019/06/29 05:59追記---
>鷺草が風に真の鳥のごと
「鷺のごと」が「鳥のごと」に変わりましたが、同じことです。
鷺草が鳥(サギ)に見えるのは、名前からして当然であり、当たり前すぎて、月並以前です。

>枯れて尚時刻むごと時計草
「時刻みけり」が「時刻むごと」に変わりましたが、同じことです。
時計に似ているから時計草、時計だから時を刻むという当たり前すぎるイメージを詠んでも、月並以前です。

>梅雨雲の切れ間が一羽鳥を見す
「切れ間が」とありますが、格助詞「が」を主語に付けるのは、口語脈です。
したがって、句末の「見す」という使役表現だけがとってつけたように文語になっている格好です。

>死者の過ぐガンジス川の水遊び
文語において、格助詞「の」が主格を示す場合は、文中の句における用法が専らです。
したがって、もし、「死者の過ぐ」で切れるのであれば、格助詞「の」の使用は不適切です。文語における格助詞「の」の用法から外れています。
或いは、「死者の過ぐガンジス川」が名詞句であれば、格助詞「の」の用法に問題はありませんが、動詞「過ぐ」の活用語尾が終止形になっていることが不適切で、連体形「過ぐる」を用いて、「死者の過ぐるガンジス川」と表現しなければなりません。

---2019/06/30 07:17追記---
>水遊び/ガンジス川に死者流れ (←水遊び(名詞)/ガンジス川(名詞)で切れるので下五を、流れ(連用形)で句切れを避けました。
上五(或いは中七)で切れる場合、下五を終止形で結ぶのは避けるべきなどという莫迦なことを誰が言っているのですか?

芭蕉の句にも、上五で切れて、下五を終止形で結んだ(下五で再び切れた)例は多々あります。

>鶏頭や雁の来る時なほ赤し
>木枯しや竹に隠れてしづまりぬ

また、体言止めも切れの効果を生みます。
次の句のように、上五や中七で切り、下五を体言止めにしても、印象としては、下五で再び切れた感じになります。

>古池や蛙飛びこむ水の音
>五月雨を集めて早し最上川

つまり、上記の芭蕉の句の例を見ても、上五や中七で切れる場合、下五を連用止めにして流すようなことは行われていません。
上五や中七でいったん切れたとしても、下五の末でも再びきちんと切れている句の方が、全体に締まりが生まれるのです。

これでよいのです。
むしろ、下五を連用形で結んで流すと、句全体の印象が締まらず、だらだらと中途半端な感じになってしまいます。