悪意の在り処/岡部淳太郎
岡部淳太郎さんのコメント
「詩とは何か祭り」参加作品。
たぶんまたしばらく投稿しないと思う。

つうか、これはかなり恥ずかしい文章であるのかもしれない。


---2008/09/13 21:48追記---

>LiLiumさん

LiLiumさんの最初のコメント、

>自分の価値基準(信仰)は他人には当てはまらないし、こういった散文を読むと「貴方は貴方の信仰を詩で証明すればいい」といつも思う。

これが今回LiLiumさんが説明されたようなことの要約にはなっていないように思えます。
上記のコメントを読んだだけでは、仲さんの散文のコメント欄で書いたような感想を抱きやすいというのは当然のことだと思いますが、
今回の説明ではどうしてもその最初の発言を言い繕っているように見えてしまいます
(まあ、この点については置いておきますが)。

そりゃあ誰もが自分の詩を大切に書いているのはわかるし、そのこと自体を否定してはいません。
僕が言いたいのは人の善意(日の当たる部分)だけ見ていても全体像は見えてこないんじゃないかということで、
それは詩に限ったことではなく、生や社会や世界といった人が直面しなければならないものすべてにおいて言えると思います。
言ってみれば、それは詩に対する態度であると同時に自らの生に対する態度でもあるのです。
光と闇、その両方を手に入れて吟味してみなければ、すべてを理解することは出来ないでしょう。
善意(光)の方ばかりを向きすぎるというのは、その意味で片手落ちであり非常に脇の甘い態度なんですよ。
それを「軽い言葉で語られる」というふうに受け取られるのは非常に心外です。

そういう意味とともにネット詩全体に対するある種の苛立ちがあってあのようなことを僕は書いたのです。
ネット詩への苛立ち云々に関してはこの散文だけでは説明しきれていないですが、
いままで僕が書いてきた散文の延長線上にこの散文もあるので、あえて説明は省いているようなところがあります。

それと、

>見向きもされない詩はそのものに体力がないのであって読み手の問題ではないような気がします。

という意見には僕は承服しかねます。
「見向きもされない詩」にだって魅力はあるでしょう。
その魅力を発見しようとする努力を怠っていることの言い訳にしか聞こえません。
そのような詩を最初から捨て去ってしまうのは怠慢であり、そんな態度では何も見えてこないと考えます。