垂れ下がる午後/山人
おぼろんさんのコメント
山人さんがいらっしゃると、良い文章かどうかの前に、「来てくれたのだな」といった安心感があり。森田さんや、いなくなられたこほうさん(漢字が分かりません)などもそうでした。山人さんの文章は実は読者に何を思えと思って書かれているのかがよく分からず、散文作品の場合読み飛ばしてしまうこともあります。老眼なので、縦書きだと注意力が維持できないのです。作品に対するコメントでなくて、申し訳ありません。わたしは一般的に解題ということを好まないのです。山人さんの作品を見ると、(良いと感じてもポイントをつけないことが多々あります。偏屈かつ天邪鬼ですみません)、おお「人が現れた」という印象をまず最初に持つのです。正確ではありませんが、無人の荒野に人が現れたといった印象です。砂漠にランボーが現れたといった印象です。柳田國男の「山人論」のような感じです。わたし自身は柳田國男の原書は読んではおらず、小林秀雄からの「聞いて知り」なのですが、一見非人間的に見えることが実は人間的だったと思わせるような、本質への回帰が山人さんの作品にもあり、(老眼なので)出来れば横書きで書いてくれれば、などと贅沢なことを思ったり。……縦書きの文章はメモ帳にコピペしたり、いちいち画面をスクロールさせながら読んだりと、大変なのです。まあ、横書き礼賛は止めておきますね。縦書きでしか表せないものが、縦書きを使用する作者の方たちにはあるのでしょう。何を思えば良いのでしょう。実は、わたしの場合、山人さんはお元気だろうか? ということなのです。詩人の姿勢などではありませんね。俗物の姿勢です。「つまり、あまり思考したくないのである」という表現に、はっとしました。ならば、「以前は思考していたのだ」と。わたしは、アンドレ・ブルトンが唱えるような「精神のオートマティスム」が好きではなく、さんざん思考されたうえに綴られた文章を好みます。この嗜好、多分アラガイsさんなどとは真逆でしょう。ですので、今回も「来てくれた」と思うものなのです。世間話のようなコメントで申し訳ありません。作品の感想としては、今回もやはり意味ではなく人が提示されている、と感じます。