パブリックアートとしての現代詩/腰国改修
ぽりせつさんのコメント
以下の文は、あくまで私の芸術観を前提としたコメントです。

>詩作品そのものが、
>パブリックアートとして存在する風景は考えられるだろうか?

充分に考えられます。「公」を意図しなかった既存の詩を
大衆の前に持ってくれば良いのですから。

しかし、
「『パブリックアートとしての詩』は作成可能か」
ということでしたら不可能だと思われます。
少なくとも「人間」には。

芸術とは、自己の中で能動的に働く意思が
客体を持たない時に成り立つ行為、と言えます。

「公」ならびに「依頼主の要望」を
自己の能動意思を阻害しない状況下に落とし込む事ができても、
そこには「見られる」という前提があり必然的に客体が現れてしまいます。

客体を持つ芸術はあり得ず、
よって「パブリックアートとしての詩の作成」は不可能という事になります。

ただ、強いて挙げるなら「社会性を維持したヘンリー・ダーガー」なら、
彼は画家ですが可能かもしれません。