海を見た/Giovanni
Giovanniさんのコメント
読んでくださって、さらに評価までいただけたみなさま。
とても嬉しいです。ありがとうございます。現在多忙のため疲弊していますが、少し元気が出ました。

ひだかたけしさま
コメント、ありがとうございます。また、遥か彼方の南米にいきました。秋の深まる中、日本ではあまりないような大波を眺めながら過ごしました。
たどり着きたいところ、それはどこなのか、いまだにわかりません。独りであろうと連れ合いがいようと。その思いはずっと消えないもののようです。あああ。


---2019/05/25 07:10追記---
森田拓也さま
コメント・評価本当にありがとうございます。遅くなってごめんなさい。
 ランボーの住む町は海から離れていて、まだ若かったランボーはある程度の年になるまで(おそらく詩を書き始めて以降)海を見たことがなかっのではないかと勝手に想像しています。だから、海のことをランボーが書くとき、何か特別な意味があったのかなとよく考えます。
私にとっての海にも、土地柄めったに海にを見られなかったので、あこがれというか、そういう心情が入ってくるのかなと思っています。だから、ああ、あの憧れの海にたどり着きたい、なのかなと。
しかしなぜ、海を見ながら、たどり着きたい、のかというと……とにかく、「たどり着けていない」のです。それがどこなのか、上のひだかさまのところにも書きましたが、よくわからないのです。一つではないのかもしれません。それは、心の底に落ちた棘に刺されたような悲しいなにものか、とでもいえばいいのでしょうか。

秋の海は悲しいかな。