詩は衰退したのではなく、移動した――日本詩歌ジャンルの制度と影響力 /atsuchan69
atsuchan69さんのコメント
りつさん、ポイントをありがとうございます。
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夏井椋也さん、ポイントをありがとうございます。 
海さん、ポイントをありがとうございます。  
鏡ミラー文志さん、ポイントをありがとうございます。  
洗貝新さん、ポイントをありがとうございます。
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田中宏輔2さん、ポイントをありがとうございます。 
wcさん、ポイントをありがとうございます。 

※國體(国体)という観点から見た場合、日本の詩歌において中心的な位置を占めてきたのが短歌であるという理解は、歴史的・制度的に見てほぼ妥当である。一方、俳句は結社という形態を通じて共同体的な結束と規範意識を形成し、社会内部に生じる感情や不満を内側で循環・調整する機能を担ってきたと考えられる。また現代詩は、国家的言語秩序から逸脱しうる思想や実験的言語を、可視的な中心から切り離された場に配置することで、結果的にそれらを隔離・管理する役割を与えられてきた側面を持つ。また、日本語詩歌の制度的頂点が天皇の詠歌に置かれてきたという事実は、短歌という形式がいかに國體と深く結びついてきたかを示していると思います。 


室町 礼さん、ご指摘ありがとうございます。
「詩を論じることは、人間としてどう生きるかを論じることと切り離せない」という点には、私も強く同意します。その意味で、「詩の衰退」という言い方が、人間のあり方そのものの変容、あるいは劣化を含意してしまうというご懸念は、もっともだと思います。

また、「移動」よりも「転位」という概念のほうが適切ではないか、という指摘も重要だと感じました。吉本隆明の『転位のための十篇』が示した問題系が、自己表出としての詩の行方をめぐる切実な問いであったことは、改めて確認されるべきだと思います。

ただ、拙稿であえて「移動」という語を選んだのは、詩的言語が必ずしも内面的切実さの深度だけによって評価される場に留まらず、制度・媒体・発表環境といった外部条件の変化によって、出現する場所そのものを変えてきた、という側面を強調したかったからです。SNSやネット詩における言語実践が、必ずしも「真の自己意識の解放」に至っていないというご指摘は、私自身も共有しています。

その上で、私が問題にしたかったのは、そうした通俗化・ジャーナル化を即座に否定するのではなく、そこに現れている言語感覚や衝動を、どのように読み取り、再配置しうるのか、という点でした。対症療法に終わる危険性を孕みつつも、そこに現れているものを一度引き受け、批評的に蓄積する場がなければ、「ほんとうの自己意識の解放」へと向かう回路そのものが失われてしまうのではないか、という危惧もあります。

吉本が提示した「転位」と、現在私たちが直面している言語状況とのあいだには、確かに視点や方向性の差異があります。その差異こそが、詩に対する姿勢の違いとして現れている、というご指摘は、今後さらに考え続けるべき論点だと思います。貴重な問題提起として受け止め、引き続き検討していきたいと思います。